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映画『ミッシング』とパスカルの賭け

吉田恵輔監督『ミッシング』(2024)の後半、圭吾(森勇作)は、仕事中に子ども連れの男が車から降りるのをふと目にする。その車は、姪の美羽が失踪した日に、自分が目撃したと警察に証言した「脚立をのせた白い車」だった。

もっとも、その目撃証言は圭吾がついたウソなのであり、「脚立をのせた白い車」は圭吾の想像の産物に過ぎない。にもかかわらず圭吾は、男の家に誘拐された美羽がいるという可能性を捨てきれない。ついには、非番の日に男の家をこっそり覗き見し、警察に通報されてしまう。

圭吾の行動は奇妙にみえる。彼は、自分のウソの証言が真実になる可能性に賭けたのではないだろうか。

常識的に考えて、その可能性はほとんどゼロに等しい。しかし、たとえその可能性がどんなに低くとも、彼は姪が見つかるほうに賭けざるを得ないのである。

圭吾の姉であり、行方不明になった娘を探し続ける沙織里(石原さとみ)も、当然ながら娘が見つかる可能性に賭け続ける。人生の残りすべてを、勝つ確率の限りなく低い賭けに捧げること。確率は低いがゼロではないことが、事態をかえって苛酷なものにする。

この話は有名な「パスカルの賭け」に似ている。パスカルは、神は存在するか存在しないかのどちらかだが、どちらが真であるか人間が知ることは絶対にできないと主張した。コインを投げて表が出るか裏が出るかを、投げる前から知ることはできないのと同じことだ。

「神は存在する」をコインの表、「神は存在しない」をコインの裏とすれば、信仰とはコイン投げで表に賭けることと同じである。ただし、表と裏が出る確率は同じではなく、表が出る確率は裏が出る確率よりずっと小さい。賭け金は自分の人生全体だ。もっとも、表に賭けて負けたとしても、失うものは何もない。反対に、もし勝った場合には無限の幸福が約束される。だから表に賭けないのは愚かな選択だと、パスカルは主張する。

この「パスカルの賭け」の話は、エリック・ロメールの傑作『モード家の一夜』(1968)にも出てくる。「神は存在するか否か」という賭けに乗るのはあまり気がすすまないが、この話は「人生は生きるに値するか」という賭けに置き換えて考えることもできるだろう。

すなわち、「人生は生きるに値する」をコインの表、「生きるに値しない」をコインの裏として、人生とは表に賭けることであると考える。表が出る確率は限りなく低いかも知れないが、ともかく我々は表に賭けて生きるしかないし、たとえ負けたとしても、賭け金はもう清算されている。だから我々は、不断の疑いに迷いながらも、わずかな可能性に賭けて生きていくのである。

そんなことを考えました。

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