Yosuke Hiratsuka

書籍編集/執筆/文化的汗かき/映画的べそかき

Yosuke Hiratsuka

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最近の記事

「悪は存在しない」というゲームについて:映画『悪は存在しない』

行方不明になった少女を探して森の中をさまよっていた巧と高橋が月明かりに照らされた野原に出たとき、そのゲームは唐突にはじまる。 ゆるやかな起伏の向こうに、こちらに背を向けた少女と鹿が向かい合わせに立っているのがみえる。鹿は手負いでない限り絶対に人を襲わない。そう巧は断言していたが、少女の目の前にいるのはまさに手負いの鹿である。 少女は被っていた帽子をとって無防備な長い髪を露わにし、一歩前に出る。それを制止しようとして、高橋も思わず一歩前に出る。だが、鬼がこちらを見ているあい

    • 映画『ミッシング』とパスカルの賭け

      吉田恵輔監督『ミッシング』(2024)の後半、圭吾(森勇作)は、仕事中に子ども連れの男が車から降りるのをふと目にする。その車は、姪の美羽が失踪した日に、自分が目撃したと警察に証言した「脚立をのせた白い車」だった。 もっとも、その目撃証言は圭吾がついたウソなのであり、「脚立をのせた白い車」は圭吾の想像の産物に過ぎない。にもかかわらず圭吾は、男の家に誘拐された美羽がいるという可能性を捨てきれない。ついには、非番の日に男の家をこっそり覗き見し、警察に通報されてしまう。 圭吾の行

      • 映画『夜明けのすべて』に関するメモ

        現代の社会における人とのかかわりは、多くの場合、互いに自立した個人であることを前提としている。「社会に出る」とは働くことと同義であり、その目的は少なくとも経済的に自立することだ。また、日本社会に広く普及している「他人に迷惑をかけてはいけない」という倫理感は、個人の精神的・身体的な自立(自律)を強く要請する。 自立した個であるために、私たちは自分の弱さを他人に見せないようにして生きている。もちろん、生きていれば誰でも弱さのひとつやふたつ(やみっつやよっつ)は抱えているものだ。

        • 映画『コット、はじまりの夏』について

          豊穣の女神デーメーテールの娘ペルセポーネーは、野原で遊んでいたところを冥界の王ハーデースに見初められ、地下深くにある冥界に連れ去られます。母デーメーテールは嘆き悲しみ、地上には作物が育たなくなってしまいます。事態を重く見たゼウスはハーデースにペルセポーネーを返すよう交渉しますが、いちど冥界の食物を口にしてしまったものは二度と地上に戻れません。ペルセポーネーは冥界にあった12粒のザクロの実のうち、6粒を食べてしまっていました。以後、ペルセポーネーは1年のうち6か月を冥界で過ごし

        「悪は存在しない」というゲームについて:映画『悪は存在しない』

          パステルカラーの冥府 映画『アステロイド・シティ』について

          3人の少女(パンドラ、カシオペイア、アンドロメダ)は、その砂漠の町のモーテルの共同シャワーの裏手に、タッパーウェアに入った母の遺灰を埋める。祖父スタンリーは、娘の遺灰をこんな場所に埋葬するわけにはいかないと、タッパーウェアを砂から掘り出すが、少女たちに抗議され、再び地面に埋めてしまう。 その砂漠の町の中心には、かつて隕石が落下してできたクレーターがある。ある日、町に集まった人々がクレーターの底で天体の視差楕円の観測をしていると、空からエイリアンがやってきて隕石を持ち去ってし

          パステルカラーの冥府 映画『アステロイド・シティ』について

          映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』とケアの倫理

          サラ・ポーリーが監督・脚本を手がけた『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、実際の事件に触発されて書かれたミリアム・テイヴズの長編小説を原作としている。南米ボリビアにあるメノナイトのコロニーで、多数の女性たちが家畜用の鎮静剤によって意識を奪われレイプされた。当初、被害者の訴えは悪魔の仕業などと言われてまともに取り上げられなかったが、犯人の一人が目撃されるにおよび、数年間にわたる卑劣な犯行が明らかになった。 犯人グループは逮捕されたが、コロニーの男たちは保釈金を支払って彼ら

          映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』とケアの倫理

          映画『TAR/ター』について

          リディアとリンダ トークショーのホストを務めるアダム・ゴプニク(本人)は、リディア・ター(ケイト・ブランシェット)の華々しい経歴を長々と紹介した後で、「何か言い漏らした事柄がありましたか」と彼女に尋ねる。 紹介された彼女の経歴には、たしかにいくつもの漏れがある。たとえば、彼女の本名がリンダ・タルであるということ。ニューヨークのスタテン・アイランド出身であること。子供のころ出場した音楽の大会でメダルをもらったこと。レナード・バーンスタインの音楽番組「ヤング・ピープル・コンサ

          映画『TAR/ター』について

          映画『ザ・ホエール』に関するノート

          1. 隠された主題 ダーレン・アロノフスキー監督の映画『ザ・ホエール』は、街はずれの荒寥とした野原の停留所に一台のバスが停まり、ひとりの乗客を降ろす遠景のショットからはじまる。バスから降りた人物が何者なのか、画面から判然と見分けることはむずかしい。映画が終わったころには、この冒頭のシーン自体を忘れてしまう人も多いかも知れない。しかしじっくりと思い返してみると、この冒頭のシーンに、この映画の主題となる3つの物語が暗示されていたことに気づく。 ひとつ目は、ハーマン・メルヴィル

          映画『ザ・ホエール』に関するノート

          さよならと抱擁 映画『秘密の森の、その向こう』について

          クローズ・アップで捉えられた年配の女性が厳かに「アレクサンドリア」と呟くと、カメラは少し引いて、その単語をクロスワードパズルに書き込む少女の小さな手を映し出す。やがて「さよなら」を告げて部屋を出た少女は、各部屋を順にまわって住人たちに「さよなら」を告げた後、片付けのほぼ終わった最後の部屋に入る。部屋の隅に立てかけたステッキや天井からぶら下がっている吊り手に、その部屋の住人だった人の面影がまだ残っている。その部屋に住んでいたのは少女の祖母であり、部屋を片付けているのは少女の母親

          さよならと抱擁 映画『秘密の森の、その向こう』について

          映画『エンパイア・オブ・ライト』について

          四月は残酷な月 大晦日の朝、映写技師のノーマン(トビー・ジョーンズ)が休憩室でクロスワードパズルを解いています。 「ヨコの9、5文字。『荒地』の最初の単語は?」 横にいたヒラリー(オリビア・コールマン)はほとんど即座に正しい単語をつぶやきます。T・S・エリオットの『荒地』のよく知られた冒頭の一節は次のとおりです。 T・S・エリオット自身の注釈によれば、『荒地』はJ・G・フレーザー『金枝篇』のアドニス、アッティス、オシリスを扱った章から詩想を得て書かれたそうです。これら

          映画『エンパイア・オブ・ライト』について

          3115は希望の番号 映画『LAMB/ラム』について

          自分の産んだ子を人間に取り上げられた雌羊が、寝室の窓の外でしきりに鳴いて、マリア(ノオミ・ラパス)をわずらわせます。その雌羊の耳には「3115」という番号札が付いています。 映画をみたあと調べたのですが、この番号は旧約聖書のエレミヤ書31章15節を指すのであるらしい。劇中にわざわざ提示されているヒントですから、無視することはできません。今回はこの件について考えてみたいと思います。 ラケル=雌の羊 さて、エレミヤ書31章15節はこんな内容です。 「エレミヤ書」というのは

          3115は希望の番号 映画『LAMB/ラム』について

          ワンダのヘアカーラー 映画『WANDA/ワンダ』に関するメモ

          ワンダ・ゴランスキー(バーバラ・ローデン)のこれまでの人生で、物事が順調に進展したことなど、ほんの数える程度しかなかったに違いない。彼女のままならない髪型ひとつとっても、そう想像せざるをえないのである。 そもそも、なぜヘアカーラーを巻いたまま裁判所に出廷してしまったのか。おそらく、前の晩にセットして寝るつもりが、ビールを飲み過ぎて姉の家のソファーで寝てしまい、出掛ける前にあわててセットして、法廷に入る前にほどけばいいだろうと思ってそのまま裁判所に向かったものの、定刻を過ぎて

          ワンダのヘアカーラー 映画『WANDA/ワンダ』に関するメモ

          シックスの神話 映画『グレイマン』について

          フィッツロイの姪クレアの警護を勤めていたとき、腕の刺青について尋ねられたシックス(ライアン・ゴズリング)は、それがギリシア神話に出てくる英雄の名前であると答えます。神々を欺いた罰として、大きな岩を山の頂上に運んでいるという説明から、その英雄の名がシーシュポスであることがわかります。 刺青について言及するためにわざわざ付け加えられたとしか思えないこのシーンが、シックスがシーシュポスであることの表明なのは明らかでしょう。“Six”という呼び名は数字の6というだけではなく、“Si

          シックスの神話 映画『グレイマン』について

          映画『MEMORIA メモリア』について 覚え書き

          寝室とおぼしき薄暗い部屋。窓にはカーテンがかかり、外の景色はみえない(カーテンは、上映がはじまる前の映画のスクリーンのようにもみえる)。アピチャッポンの映画なのでこのシーンがしばらく続くことは予想できるのだが、突然鳴り響く爆発音に驚かされる。画面上でも、同じように音に飛び起きた人影がベッドから起き上がり、ふらふらと隣の部屋に移動していく。彼女(ジェシカ=ティルダ・スウィントン)が眠ることはもう二度とないだろう。 明け方の駐車場に眠る何台もの自動車の防犯アラームが次々鳴り出す

          映画『MEMORIA メモリア』について 覚え書き

          ムーンダンス・ダイナーで日曜日のブランチ 映画『tick, tick... BOOM!』に関するノート

          ネットフリックスで映画『tick, tick... BOOM!』をみた。代表作『レント』で知られるミュージカル作家ジョナサン・ラーソンの自伝的ミュージカルを、リン=マニュエル・ミランダが映画化した作品(以下は、cinemactif主催のペップさんが毎月開催している「マンスリー・シネマ・トーク・オーバーシーズ」というオンライン・ミーティングに参加したときお話したことをまとめたものです)。 新作ミュージカルの発表会が間近に迫っているのに、必要な曲はいっこうに書けない。恋人のスー

          ムーンダンス・ダイナーで日曜日のブランチ 映画『tick, tick... BOOM!』に関するノート

          映画『Passing 白い黒人』について

          ぼやけたモノクロスタンダードの画面の中から、歩道を行き交う人々の足元が徐々に浮かび上がってくる。やがてカメラは二人連れの婦人の足元をとらえ、その行先を追いかける。しかしようやく姿が見えたその二人連れの白人女性はただの買物客に過ぎず、そのうちの一人が落としたゴリウォーグ(黒人の人形)を身をかがめて拾った女性こそ、この物語の主人公アイリーン(テッサ・トンプソン)である。 ラストにつながる〈落下〉のモチーフは、巻頭のこの技巧的なシーンに早くも描き込まれている。アイリーンは、別の場

          映画『Passing 白い黒人』について