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危機的な日々をのんきに生きるライフハック -乱にいて治を忘れず-

4月のある日、昼頃起きると、スマホには「ただちに避難」という物騒な通知がきていた。

ワイフによれば、けたたましい通知音が鳴り響いてビックリしたらしい。ところが僕は気づかずに寝ていたので、もしも原因となった北朝鮮のミサイルが福岡に着弾していたら、もう起きることはなかったのかもしれない。

大震災&津波から原子力事故、そしてコロナという疫病クライシスを経て、いよいよ戦争まで心配しなくてはならない日々が来ようとは…。まったく世界は僕らを休ませてはくれない。

思えば僕が子どもだった20世紀後半は、平和を謳歌できた幸せな時代だった。戦争の心配などまったくなく、恐れていたのは、ノストラダムスの地球滅亡説くらいという、本当にのんきでいられた時代だったと思う。

ただ当時はまだ先の世界大戦を生き抜いた人たちが現役だったので、彼らはよく「治にいて乱を忘れず」ということわざを用いて、平和な時代に生きる僕らを戒めた。

治にいて乱を忘れず
平穏無事の世の中にいても、つねに乱世のことを考えて、準備をしておかなければならぬという教訓。


そんな平和だった時代を思い出しながら、今はこう思うのだ。
「乱にいて治を忘れず」だなと。

そもそも「治」も「乱」も、同時に存在しているのが自然界であり、どちらかに分けること自体がナンセンスだ。平時でも乱世を忘れずに生きることが大切ならば、乱世でも平和な心で生きることも大切だろう。どちらも一緒にあるのだから。

「危機意識を持て」とか、「危機管理」なんて言葉をたまに聞くけれど、危機が管理できるならばそもそも「危機」ではない。そんなことをおっしゃっていたのは確か養老孟司先生だったと思う。

危機すらコントロールしようなんて人間の傲慢であり、そんなことを思っているから「危機っぽい何か」に翻弄されてしまう。ここは一つ、「こんなはずではなかった」ということは人生で必ず起こると腹を括って、予期できぬ事態を防ぐのではなく、受け入れやすいというか、なるべく被害が少なくなりそうな体制を考えたほうがいい。

具体的に思いつくのは、多すぎる所有物や、無駄なプライド、古い固定概念、腹回りの贅肉を捨てるくらいだろうか。心も体も軽くして、何かあった時にすぐに動ける状態にしておくことが、もっとも効果的な備えになるように思う。というかそれくらいしか思い浮かばないのだけど…。

ちなみに日本にはとても良い参考書がある。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
河が流れて行く様子を見ていると、池や沼とは異なり、とうとうと流れて行き、その水の流れは、河がなくならない限り絶えることはありません。『方丈記』の作者とされる鴨長明は、流れる河の水が、二度と戻らない事を見、「無常」という仏教の言葉と重ね合わせて、「常に同じものはこの世には無い」と強く感じて、この冒頭の文章を書き始めたと多くの人に解釈されています。 鴨長明の生きた時代は、戦乱が多く、天災や火災も多かったということが、『方丈記』の中に描かれています。

方上記wikibooksより

けっきょく「何があっても執着するな」というのが、最後の落とし所になってしまう。21世紀でAIよろしくな世の中になっても、数百年前と変わらないのは、所詮人間は人間で、無力なことの証だろう。

もう一度書くけど、自分たちが危機を何とかできるなどと思うことは、人間の傲慢で壮大な勘違いであり、平時になまけてしまう一方、乱世にあわてふためくような、情けないことをやってしまう原因だと思うのよね。

今日も、ゆく川の流れは絶えずして。やることやって、あとはのんきに生きるのが一番よい。


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