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bibouroku #2

多分2回目の備忘録投稿だと思う。最近は考えることが多すぎたり、自分なりにだが本を読む時間をたくさんとっているので思考が移ろうことが多い。だからその時自分が大事にしているものや影響されているものを書き残しておかないと、何を考えていたのかわからなくなるし後から見返して(多分見返さない)発見があったり懐かしむために備忘録として書き残して、未来から過去を見て新しい未来へつながる事を期待している。

農家を始めて5ヶ月がたった。佐賀県鹿島市能古美区浅浦にある「鈴山農園」だ。地元鹿島の親父のツテを期待したら同級生の父親であり議員でもある方の紹介でここで修行させてもらうことになった。

農業をしてよかったと思う。お金に換算されないことというのは現代では非常に価値を持つように感じる。もちろん貨幣には換算されないけれど。何にでも貨幣に換算される時代だ。貨幣の方が気を使わなくていいし楽な関係にある。以前はお金でものを買ったりすることに何も感じなかった。

先日大分に行った。私が管理している分校の「あぐりぶ」に初めての宿泊客が来て、その帰りを送迎したからだ。そのときに紹介してもらったのが大分市にある「カモシカ書店」だ。ここは古本も新書も混ぜて売ってあり、2階はカフェになっっていて美味しいコーヒーが飲める。細かい名前は忘れてしまったが「ほろにがコーヒー」みたいな、メニュー表の上から2番目がおすすめだ。店主が学生時代にバイトしていたコーヒー屋さんで出ていた懐かしのもの、みたいな話をしてもらった。店主の人生に影響をおそらく与えたであろうそのコーヒーを飲まずしてカモシカ書店を堪能できるはずはないと考えて迷わず「ほろにがコーヒー」?を頼んだ。

コーヒーを頼む前に、私が本をまあまあの量購入したのでお会計はタダだった。それは店主の粋な計らいとも言えるし、たくさん本を買ってくれたから、とも言えるだろう。しかしどのような理由にせよ店主のお気持ちのコーヒーをいただき、私はそれを飲んだ。会計とは別にして「贈与」の呪いを受けた気がする。

お金には原材料やサービス料などいろんなものが含まれているが、払ってしまえばトレードだ。あなたのその働きの分を。アメリカではチップなんかがあるがそれは店主側の設定した代金とお客さんの何かの理由での支払い意思額の差で、それが店員にうつるだけだ。ん?これも贈与か?みたいな気になってきたのでここでは深掘りはしない。

店主が「無料でどうぞ」といったコーヒーを飲んだ私は兎にも角にも代金を払わずに幸せな時間を過ごせたわけだ。それは貨幣では換算できない価値の行動そのものであり、私には「お金」という自分がその時間とコーヒーを変換する手段を失った。

これは「贈与」か?贈与って何か定義を。。。みたいな気持ちになってきた。

兎にも角にも幸せな時間とコーヒーをいただいた私は、第三者に何かしらの形でこの「贈与」を送らないといけなくなったわけだ。誰にこの贈与を渡そうかなあと考えながらも、渡せていない間は私にとって、これは個人の捉え方があると思うが「呪い」みたいな感じだ。人に贈らないといけないものを自分がひたすらに持っている。早く誰かに渡したい気持ちになる人の方が多いだろう。自分で持っている間は「呪い」であり「宝物」だ。

しかし難しいのは店主にもまたお礼がしたい。私は米農家なので今は新米の最前線に立っているわけであって、ただでさえ鈴山農園の米は褒められることが多い。そんなお米をあげないわけにはいかないが、私が店主に渡してしまっては店主が私にくれた「贈与」が世界を回らなくなってしまうので全く無意味になってしまう。わかってくれるだろうか、「呪い」とも呼んでいる訳が。

お米を店主に「贈与の返還」としてでなく、「新たな贈与」もしくは「それ以外の何か」の形で渡すことができれば良いのだが。。あまりいい方法が見つからない。形式的にどうしても「贈与の返還」になってしまう気がしてならない。困った。

今度また向かうことがあるのでその時にでもお米を渡そうと考えてはいるが、情報の非対称性だ。私が考えていることが全く意味のない私の空想である可能性も全く捨てきれないが、もし店主が「贈与」的な価値観を持っている場合あまり好ましくない結果になるかもしれない。それは全くわからないが私としては知らない方が気軽に渡すことができるので好ましい。でも知ってるよなあ〜〜〜。ああああ〜〜。

こんなことで悩めるのは「貨幣に換算できない価値の時間」を私が自覚しているからだ。農家はお金にならない仕事が多い。草刈りとか畑づくりとか。農業は基本的には生産物を売って貨幣を手に入れる。もちろん作業を代行してあげたらお小遣いがもらえたりするが、基本的には草を買っても1円にもならない。しかしそれは間違いなく風景を守り、住民の心を和やかせ、風土の流れを作り、醸成される文化の土台となる。そんなことが貨幣で換算されていいものだろうか。貨幣に換算されれば価値がなくなってしまう気がする。

もちろん、農家としては草刈りをしたらお金が入った方がいいには決まっているが、それに囚われては農業をしている意味がない気がする。株でも回した方がよっぽどお金になる。

お金にならないこと、人から理解されないこと、それが本当に価値のあることなんじゃないかと最近考え始めた。お金にならないことは先ほどの例にしても「呪い」かつ「宝物」になるものが多いのではないか、そんな仮説を今度は資本主義の中で実証してみたくなっている、というのが最近の私のトレンドだ。

人から理解されないことについてはここでは話さないが、皆が持つ貨幣と理解にどんな価値があるのか、私には全く理解のできないことなので、逆に価値がある。笑

備忘録にお付き合いいただきありがとうございました。

追記

私以外にも#カモシカ書店 を使っている人がいたので店主に投稿がバレるかもしれない!笑

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