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モノを減らすと心に訪れる空虚感ーこれまでの生活に驚く

休みの日、コーヒーといっしょにブログを書くのが習慣になってきました。
仕事の日は本腰入れて長文を・・・という気分になれないのでいつもつぶやき程度になっていますが、土日であれば大丈夫。1つのテーマを深堀りできます。1月半ばの盛岡市。溶けかけの雪がまた凍りそうな夕方書いています。

今日はミ二マリストあるある、、、、かもしれない話をします(こんなことなかったよ!という方、ごめんなさい。事前に謝っておきます)

モノを減らす、もしくはこれまでやっていた習慣、タバコやお酒、アプリゲームなどを止めると、心に穴が開いたような気持ちになりませんか?

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私が時折に感じる空虚感。ミニマリストになる中で感じる気持ちの正体と、どうその気持ちを制御するか。新しいライフスタイルとの付き合い方がテーマです。

この空虚感は、一度「手放した」経験がある人はわかってもらえるでしょうか。

例えば、これまで漫画にハマっていたけれど、進学を機に全部ブックオフに売った時。はたまた、学生時代から好きだったカードゲームを、就職のタイミングですべて手放した時。あと、テレビゲームをしている人が一度は経験しているであろうこと。何十時間ものめり込んでいたドラゴンクエスト3の保存データが、次電源を入れた時にすべて消えてしまっていた時!
最後の1つは昭和時代の不可抗力とはいえ、手放さざるを得ない状況ですね。

こういったあと、なんとも言えない気分になったことはないでしょうか。

いつもだったら開いた時間に無意識に伸ばしていた本が無い。始終勝ち方を考えていたカードゲームが、今は手元から離れてしまった。そしてこれまでの苦労が水の泡・・・

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かく言う私もそうでした。定期的な断捨離の中で、これまで当たり前にあったモノが手元から姿を消します。本棚を締めていた漫画、ここ1ヶ月使っていない蛍光ペン、ワンシーズン着なかったアウター、10年前から棚においてあったゲームソフトなどです。すると、自分の意志で手放したのに、ずっと清々しい気分とは、必ずしもならないのです。

ちょっとした後悔がある。思考が止まってしまうような時間を感じます。布団で横になりながら、いつもは別の事をしていた時間が、ぼーっと天井を見つめる時間へ代わるのです。まさに見知らぬ天井。

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いや、この間の抜けたような時間は、どうして出てくるのでしょうか。

脳科学者の権威、茂木健一郎さんが、こういった「ボーッとした時間のことを」デフォルト・モード・ネットワークと名付けています。

なんにも考えていない、と思っている時間も、脳は無意識下で働いている。記憶情報を整理しているのだそうです。そう考えると、私が悪し様にいった時間も、そう貶すべき時間ではないかもしれません。

とはいえ、まだこれだけでは腑に落ちません。これに、私見を交えてみたいと思います。

モノや習慣を手放すことで起きた心の動き。そこから、私は「情報が入ってくるのを待っている」。言うなれば、「待ち受け人間」だったのではないか、という疑いを持ちました。

これまでだったら、毎朝「OKグーグル、ニュースを聞かせて」と、AIスピーカーに話しかけていた。ニュースの中身が何であれ、10分から15分はニュースが耳に流れ込んできていました。

ですが今はニュースダイエットを実践しているためそれがない。入ってくるはずの情報手に入らないので、待ち受けていた脳がフリーズしているような気がします。

本を手放す時も同じです。なんとなく手を伸ばしていた本が、今はない。もし読みたければもう1回買いなおすか、快活クラブにお世話になる必要があります。

伸ばした手の落とし所が無い。だからその手が宙ぶらりんになったまま、ぼーっとすることになります。

つくづく、私は待ち受け人間だったんだな、と理解し、同時に驚きました。もう少し自発的に生活していると思い込んでいたからです。

意識的に何かをするというよりも、手元にあったから読む、すぐ聞けるから聞く。目的が無いのです。食べ物で例えるならば、手元にカル●ーのポテトチップスがあったから、特に空腹でもないのに口に運んでしまう、惰性の食生活のようです。

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この事情に気づいてしまうと、たった今不安な気持ちに悩んだとしても、元の習慣には戻りたくありません。

昔、うつ病の治療をしている方のインタビュー記事を読んだことがあるのですが、その方が似たようなことを仰っていました。曰く、「うつ病は苦しい。けれど、うつ病になる前の何も分かっていない自分には戻りたくない」と。映画マトリクスで真実に近づいた主人公ネオが、赤い薬を飲んだ時も、似たような気持ちだったのでしょう。


何かを手放すと不安になる。とはいえ、前のようには戻りたくない。となると、この気持とはどうやって折り合いをつけていくべきでしょうか。


今考えている方法は2つです。

1つは、「なーんにもない」という「間(ま)」を受け入れることです。

他の人と比較しづらいので、以下主観客観が混ざった意見として読んでほしいです。

私の場合、「いつでも何か考えている」というよりも、「何か考えないと行けない、ぼーっとしているのは悪いことだ!」という観念を持っていると思います。

それが、寝る前、寝起き、通勤、トイレの中にいたるまで、終始情報を仕入れて、考えようとする習慣につながっている、そんな仮説につながります。

ただしその場合でも、実質は思考とは程遠い。それは、情報を湯水のように頭に注ぎ込んでいるだけです。結局文字や動画の詰め込みだけが習慣化し、悪循環に陥っています。

むしろ、見知らぬ天井を見つめる時間も楽しんだり、空模様を忖度交えずにながめる時間の方が大切かもしれません。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーも言っています。ただ読書のために読書をするならば、しないほうが良い。考えを深めるために読書すべき、と。

私にも同じことが言えます。ただの時間つぶしのため。新しい情報を希求する本能に流されて情報を無目的に受け入れているくらいなら、この間(ま)を受け入れる。

自分が思考する可能性がわずかでも残る時間を受け入れた方が望ましいです。言葉遊びですが、こういった時間の余裕、遊びがない生活こそ、間抜け(まぬけ)な人生かもしれませんね。

そしてもう1つ。それは、私が目指す理想の形を目指すことです。

具体的には、受け身だった時間を180度反転させて、心のハンドルを自分の手元に取り戻す、もっと自分の意思で生活するスタイルを目指します。

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例えば、ニュースを上から順に読むのをやめて、今関心があるテーマに絞り込んで、記事を探し、調べ上げる。ミニマリストの本をただ繰り返し読むのではなくて、ミニマリストに関する自分の考えをまとめて、noteに投稿する(正にいまやっていること!)、仕事に関わる知識や、資格について調べ、自分のパフォーマンスをもっと高める。こういった事に時間が使えそうです。

騒々しい情報を手放した分を、創造の時間に回すのです。

ミニマリスト生活で生まれる余暇を、創造的に使おう。この発言をしていたのは、ミニマリストしぶさん、だったと思います(元の記事を見失ってしまいました。残念。)

もしも創造者(クリエイター)ではなく、消費者としての生活を続けるとどうなるでしょうか。

そのままモノを減らそうとすると、遅かれ早かれまたモノは増えるでしょう。なぜなら、消費者目線の場合、何を買うか、何を使うかというコントロールは、本人よりも、売る側に依存しているからです。

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iPhoneの新型、ドラゴンクエストの新作、ASICSから発表されるNEWバージョンのランニングシューズ。好きなモノを自覚している消費者であるほど、それを無視するのは難しい。いつ買うか、何を買うかの決定権が自分から離れていきます。

自分の時間、お金、モノをどう使うか。そのコントロールをとるには、ライフスタイルを創造すること。創り手に回ることが効果的ではないでしょうか。


以上。普段はミニマリストのライフスタイルを知ってほしくて、ポジティブな情報発信がほとんどなのですが、今回は負の部分をご案内しました。

何を持って、何を手放すのか。持ち物はみなさんの人生、価値観の現れです。いまの自分にあったものに囲まれて充実した生活を過ごしたいものですね。

今日も長文お読みいただきありがとうございました。

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