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【百年ニュース】1921(大正10)9月26日(月) 大型台風が日本列島を縦断し甚大な被害を出す。全国で死者661名。特に死者が多く被害が深刻だったのは愛知県(141名)と富山県(156名)。富山の台風被害は極めて稀なため富山湾台風とも呼ばれた。予測を誤った富山の伏木測候所長,大森虎之助は責任を感じ自殺。

大型台風が日本列島を縦断し各地で甚大な被害を出しました。全国で死者661名。特に死者が多く被害が深刻だったのは名古屋市と富山市で、愛知県の死者は141名、富山県の死者は156名に登りました。倒壊家屋すなわち全壊した家屋は、愛知県内だけで5838件。さらに富山県地方で列車転覆、北九州門司の大里だいり沖では汽船が沈没するなどの被害がありました。

この大型台風は25日夜に紀伊半島南端潮岬付近に上陸し、上陸地点の潮岬付近で当時の観測史上最も激しい最大風速33.6m/秒を記録して伊勢湾に約3mの高潮を起こし、大阪市の東から敦賀付近を通って日本海に入り、翌26日9時には能登半島沖を北上するというルートでした。

さて富山は現在でも台風被害が極めて稀であることが知られています。この時も富山で甚大な被害が出たことが驚きをもって伝えられ、当時は現在のように台風にナンバーをふることがなかったため、富山湾台風とも呼ばれました。そして現在の富山県高岡市ありました伏木ふしき測候所で悲劇が起こります。

大正時代には海上の観測資料というものはほとんど存在せず、台風が四国沖にあった時点では、勢力がどの程度大きいのか不明であり、またコースの予測も現在と比べればはるかに精度の低いものに留まっていました。中央気象台は25日午後になって、ようやく台風が北上するコースを取っていることを知り、各地の地方測候所に「全国暴風警報」の電報を急遽発信しました。

富山県を担当していたのは、この伏木測候所でありましたが、その電報が届いたのは所長である大森虎之助がすでに退庁したあとのことでした。本来であれば中央気象台から届いた警報を担当地域で周知させる処置が必要なのですが、当直の所員は結局適切な処置がとれずに、翌26日朝の富山湾への台風直撃を迎えることになってしまいました。

富山県下は台風圏内に入ったが、それとは知らない漁師たちはふだん通り、未明から富山湾に出で漁をしていた。その数は150隻で計500人ほどとされています。ところが、富山湾は台風により一気に風が強まり、最大風速約27m/秒という大しけとなってしまいました。行方不明となった漁船は105隻、110人余りが死亡するという大惨事になりました。

伏木測候所の大森虎之助所長は26日の早朝から出勤しましたが、残念ながらすでに事態は手遅れとなっていました。富山県庁や漁業関係者、また犠牲者の遺族はもちろん一般市民の非難が大森所長に集中することとなります。

責任を感じた所長は善後処置を講じながら、詳細な経過報告書を作成しました。そして11月26日、完成した経過報告書と遺書を卓上に残して、魚津で海中に身を投じ自殺することとなりました。享年は56歳でした。

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佐藤順一「故伏木測候所長大森虎之助君をしのびて」『天気』日本気象学会、1955



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