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【百年ニュース】1921(大正10)11月19日(土) 旧オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カーロイ4世(カール1世)と長男オットー・フォン・ハプスブルク(6)が北大西洋上のポルトガル領マデイラ島に流された。ハプスブルグ家のハンガリー王国国王への復帰運動は,摂政ホルティ・ミクローシュに退けられ失敗した。

旧オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カーロイ4世(カール1世)と長男オットー・フォン・ハプスブルク(6)が北大西洋上のポルトガル領マカロネシアにあるマデイラ島に流されました。これでハンガリー王国の国王に返り咲こうとしたカーロイ4世の復帰運動が失敗に終わりました。

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大戦末期の1918年11月9日にドイツ革命により皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言すると、オーストリア=ハンガリー帝国内でも同様の要求が強まり、11月13日に事実上の退位宣言である「国事不関与」の宣言が出され、カール1世の家族は首都ウィーンのシェーンブルン宮殿を退去し、のちスイスで過ごすこととなりました。

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ハンガリーでは1919年3月に共産主義者クン・ベーラによる政権が打ち立てられましたが、急進的な共産化への反動からベーラ政権は倒され、1920年2月29日に王政復古の決議がなされるに至りました。以後もハンガリーは混沌とした状況が続きましたが、カーロイ4世は王国の復活を決定づけようと、1921年3月にハンガリーに帰国しました。

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しかし周辺国のチェコスロバキアとユーゴスラビアが王政復古に反対し、軍の動員をかけて開戦の構えをとると、ハンガリー議会は満場一致でカーロイ4世の国外退去を求め王政復古は失敗しました。しかし半年後再びカーロイ4世がハンガリーを訪れると、ついに流罪を宣告され英国軍艦に乗せられて、1921年11月19日に大西洋に浮かぶポルトガル領マディラ島に到着しました。

現地では劣悪な環境での生活を強いられ体調が悪化、翌1922年4月1日に死去しました。享年は34歳でした。

なお長男の皇太子オットーも一緒にマディラ島に流されていました。父が死去したこのときはまだ9歳でした。同じハプスブルグ家のスペイン国王アルフォンソ13世によりマディラ島から救出され、母のツィタや他の兄弟と共にスペインに引き取られることとなりました。

カール1世

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