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【百年ニュース】1921(大正10)2月3日(木) アドルフ・ヒトラーがミュンヘンの最大級のサーカス場ツィルクス・クローネに聴衆を集め演説。本来は4,000人収容のところ6,000人を詰め込んで公開集会が開かれた。この年ヒトラーはツィルクス・クローネで合計8回の演説を行う。

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)がミュンヘンの最大級のサーカス場ツィルクス・クローネ(Cirkus Krone)に多くの聴衆を集め演説しました。本来は4,000人収容のところに6,000人の聴衆が詰めかけ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の公開集会が開かれました。

この年ヒトラーはツィルクス・クローネで合計8回の演説を行い、弁士としての人気を高めていました。1920年6月末に1,100人であった党員数は、翌年8月には3,300人に急増しました。

ドイツ国家人民党の共同設立者のひとりであるグルーバー(Max von Gruber)は、このサーカス劇場でのヒトラー演説の様子を後年(1924年)、次のように述べている。

私は2年ほど前に一度だけ、ヒトラーが「ツィルクス・クローネ」で語るのを聞いたことがある。彼が疲れも見せずに大きな空間で2時間自由に話すその能力に、私は驚嘆した。その1年半前には民主主義と社会主義の夢に取りつかれていた民衆層(庶民たち、売り子たち、労働者、下流・中流の公務員、下流・中流の商人)が、今やまた国粋主義に熱狂している姿が私にはすごぶる解せなかった。

高田博行『ヒトラー演説』中公文庫,2014,32頁

ミュンヘンを中核都市とする南ドイツのバイエルン地方は独特な気質を持ち、芸術においても大袈裟な演出を好むと言われています。ヒトラーの芝居がかった自己演出はこの地方の聴衆の嗜好にピッタリ合っていました。南ドイツという風土がナチスの台頭を助けたとも言われています。

作家のツックマイヤー(Carl Zuckmayer)は、ヒトラーの集会に参加した感想を1923年秋に次のように書いている。

この時期、私はヒトラーのビアホール集会に何度か参加した。私たちのような者からすると、その男は激情に身を任せ踊り狂い、うなるように叫ぶ人間であった。しかし、彼は、葉巻のかすみとソーセージのなかで無感覚にぼんやり集まっている大衆を興奮させ、感激させるすべを心得ていた。煽動演説では、論理的な説明で大衆を支配することなどできない。だから、ヒトラーは人目を引く登場の仕方をしたり、俗物の大きなうなり声と金きり声で大衆を魅了した。とりわけ、聴衆の感覚を麻痺させる繰り返しという金槌をうまく叩いて、伝えたい内容をリズムよくことばにするのである。それは野蛮で原始的ではあるが、訓練された巧みなもので、恐ろしいほどの効果があった。

高田博行『ヒトラー演説』中公文庫,2014,35頁
この大会は八時から開かれることになっていた。私は会場から十分間置きに電話で刻々の報告を受けていた。

晩の七時にはまだ充分の入場者とは云えなかった。そろそろ私は焦り出した。しかしそのうち安堵すべき状態の報告が入り始めた。八時十五分前には、既に会場は四分の三の入りを示し、尚切符売場には大変な群衆が長蛇の列を作っていると云う報告が来た。

八時二分に私は会場たるツイルクス・クローネに到着したのであるが、その門前にはまだ夥しい人々が切符を争って買っていた。

一歩その広大な会場へ足を踏み入れたとき、私は喜びのため足が地につかないほどであった。六千人に余る聴衆がギッシリと酢詰めになって、それがまるで巨大の砲弾のように、私の前に横たわっていた。愈々この聴衆を前に演壇へ立った時、私は如何に我々の勝利が大きなものであったかを、更に新たに感じたのであった。

私は空前絶後の国辱的賠償金問題について演説を始めた。この演説は実に二時間半の長きに亘って続けられたのである。私はこの夥しい聴衆の胸へ、ぐんぐんと私自身を揉み込んで行った。懸命の弁であった。そして一時間後には割れるような拍手が、演説の要所要所で起るようになった。私は完全に聴衆の心に喰い込み得たことを意織した。私は更に説き進めた。その中、聴衆は拍手することも忘れて、その広い会場が水を打ったような静けさになった。この厳粛な沈黙は、この日この会場に居合せた者なれば、決して生涯忘れることが出来ないであろう。二時間半の後私は演説を終った。人々はシーンと静まり返っていた。が軈て既に私の演説が終わったことに気がつくと、天井も崩れ落ちんばかりの拍手と喝采が湧き返った。そして誰からともなく熱烈なドイツ国歌が合唱された。その合唱裡に自ら会は閉じられたのであった。

私は立上って、昂奮し続けながら帰って行く民衆を、二十分間も見送っていた。限りない喜びが胸の中で疼いた。

最早我々の存在は絶対に無視するわけには行かなくなった。この日の会合の大成功が、単に幸運に恵まれたものに過ぎぬと思っていた連中も、第二回、第三回とこの同じ会場で大会を催し、その回毎に前同様の大成功裡に終った事実を目撃しては、遂に自らの考えが間違っていたことを認めねばならなくなったのだ。

一九二一年の夏になると、我々の会合は週二回から三回へ飛躍した。そしてその会場はあの広大なツイルクス・クローネを使用するのがおきまりになってしまった。その結果我々は益々多数の聴衆と党員とを獲得することが出来たのである。

アドルフ・ヒトラー『わが闘争』1925

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アドルフ・ヒトラー2 (1)

アドルフ・ヒトラー2 (2)

アドルフ・ヒトラー2 (3)


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