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【百年ニュース】1921(大正10)10月7日(土) 川端康成(22)と伊藤初代(15)が長良川河畔の鐘秀館で婚約する。カフェ・エランの女給だった初代は当時岐阜市加納の西方寺に預けられていた。しかし1カ月後川端は突然初代からの手紙で「或る非常」による婚約破棄を告げられた。この失意が川端の生涯の転機に。

川端康成(22)と伊藤初代(15)が長良川河畔の鐘秀館で婚約しました。

今年こそは村上春樹がノーベル文学賞を受賞するのではないかとたいへん期待していたわけですが、残念ながら今年も受賞は叶いませんでした。日本人でノーベル賞を受賞した経験があるのは2名だけです。1968(昭和43)年に川端康成。そして1994(平成6)年に大江健三郎です。

その川端康成はちょうど100年前の今日、生涯の転機となり、またその文学性に大きな影響を与える出来事を経験します。川端康成にノーベル文学賞をもたらした出来事と言ってもいいかも知れません。

当時の川端康成は22歳。東京帝国大学文学部英文学科の2年生でした。川端は本郷元町の壱岐坂 いきざかにあったカフェ・エランの女給だった伊藤初代に恋をしていましたが、エランのマダムが台湾にいったため、初代は当時岐阜市加納の西方寺さいほうじに預けられていました。川端は岐阜まで初代に会いに行き、結婚の約束を果たしました。しかし二人は結婚の約束をしただけで、まだプラトニックな関係でした。

この場面が川端康成の小説「篝火かがりび」に書かれています。

篝火は早瀬を私達の心の灯を急ぐやうに近づいて、もう黒い船の形が見え始める、焔のゆらめきが見え始める、鵜匠が、中鵜使ひが、そして舟夫が見える。

(中略)鵜匠は舳先に立つて十二羽に鵜の手縄を巧みに捌いてゐる。舳先の篝火は水を焼いて、宿の二階から鮎が見えるかと思はせる。そして、私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。

川端康成「篝火」

東京に戻ると10月23日付けで初代から手紙が届きました。愛にあふれる内容です。

あなた様が私のやうな者を愛して下さいますのは、私にとつてどんなに幸福でせう。私は泣きます。私も今日まで沢山の男の方が手紙を下さいました。それには愛とか恋とか書いてありました。私はその返事をどう書いてやればいゝのか、私には分かりませんでした。私は私をみんなあなた様の心におまかせ致します。私のやうな者でもいつまでも愛して下さいませ。私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました。

伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年10月23日付)

しかし1カ月後突然初代から手紙で「或る非常」により婚約破棄を告げらることになります。この失意が川端の生涯の転機となり,文学性に深い影響を与えました。11月7日付けで下記の手紙が届きました。

私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今、このやうなことを申し上げれば、ふしぎにお思ひになるでせう。あなた様はその非常を話してくれと仰しやるでせう。その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。どうか私のやうな者はこの世にゐなかつたとおぼしめして下さいませ。

あなた様が私に今度お手紙を下さいますその時は、私はこの岐阜には居りません。どこかの国で暮してゐると思つて下さいませ。私はあなた様との ○! を一生忘れはいたしません。私はもう失礼いたしませう―。(中略)さらば。私はあなた様の幸福を一生祈つて居りませう。私はどこの国でどうして暮すのでせう―。お別れいたします。さやうなら。

 伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月7日付)

この「或る非常」の正体はのちに判明しましたが、初代が預けられていた西方寺さいほうじの住職、青木覚音がくおん(48)から性的暴行を受けたというものでした。伊藤初代は1951(昭和26)没,享年44。

「湯ヶ島での思い出」は400字づめ原稿紙で107枚書いてある。未完である。6枚目から43枚目までは旅芸人と天城を越えて下田へ旅した思い出で,これを後に「伊豆の踊子」という小説に書き直した。踊子と歩いたのが大正7年で私は20歳,「湯ヶ島での思い出」を書いたのは24歳で大正11年,「伊豆の踊子」は28歳の作である。

(中略)「湯ヶ島での思い出」を書く前の年,23歳の秋のことである。私が16の娘と婚約したことである。破られなければ23と16で今日では珍しい早婚の経験であったがと思う。」

「初めての伊豆の旅は,美しい踊子が彗星で修善寺から下田までの風物がその尾のように,私の記憶に光り流れている。しかし「伊豆の踊子」の草稿である「湯ヶ島での思ひ出」を書いた大正11年,23歳の私は,恋愛(ではないような婚約)の『破局』の『直後』だから,相手の娘は強く心にあった。」

「結婚の口約束だけはしたものの,私はこの娘に指1本触れたわけではなかった。14の少女の「伊豆の踊子」も同じようなものである」

川端康成『作家の自伝15川端康成』日本図書センター,1994

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西河克己監督『伊豆の踊子』日活(1963)

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