周りに決して釣られることなかれ
この世には、善悪など大きな意味での価値観が確かに存在している。ゆえに誰もが周りに追いつこうと焦り、何かしなくちゃって思い違える。でもそれは必ずしも自分と直接的な関係があるわけではないのだ。
きっと誰もが、うすうすそのことに気づきつつ、公の場でどうどうと自分の主義主張を公言している人たちをつい羨望の眼差しで見てしまう。彼らの信念の立派さに圧倒され自分の未熟さが恥ずかしくなったり。
………けれど、彼らはただの演者なのです。
彼らは懸命に役割を演じているにすぎず、本人も気づかないうちにいつしかそういう運命の中を生きているのです。
一見すると立派にみえる彼らも、胸の中では日々焦りを抱き「何かしなくちゃ!」と生き急いでいる真っ最中なのです。
少し考えればわかること、人がわざわざ公衆の面前に出てきて何か事をなそうとする理由、それはつまり相応の見返りを求めてリスクを冒しているに他ならない。結局は地位や名声やお金、生きる糧のためなのです。
学生時代、クラスの学級会で意見したり、率先して何かをしようとしていた子たちのことを思い出してみてほしい。きっとその子以外の誰もが冷ややかな態度で、誰も同調しようとしなかったはずです。
街で演説している人の声を、歩みを止めてまで聞き入っている人を見たことがあるでしょうか?
恐らく誰一人彼らの言動に感化などされていないはず。
地元の選挙ですら、有権者同士のお付き合いのような有様なのは投票率からもあからさまです。
『地元のため地元民のため起業した』と会社経営者を自称する人たちの自慢やご高説に耳を塞ぎたくなったことは誰にでもあるでしょう。
人間が何かをしようとする際、必ず欲が根底にある。欲のみによって行動している人に誰が歩み寄ろうとするでしょう。己の欲望を満たすために周りの人たちを利用しようとする、そんな人間に誰が寄り添うでしょう。
誰もが自分の人生で忙しく手一杯なのに、別の誰かの夢の手助けなんて矛盾にもほどがある。まして、わざわざ自分の欲望を赤裸々に口外するような輩にかまっている暇などあろうはずがありません。
そのような暇があるなら、自分の愛する人々のために少しでも時間を使うほうが有意義です。それでもなお、いつの時代であれ彼らが一定数支持されるのは、孤独で周りに依存しがちな人が存在するからです。
自己肯定感が低く、自分に価値がないと信じ切っていて、そんな自分でも役に立てるなら………なんて思い込んでいる人たちです。
欲のために噓偽りの自分を演じている人と孤独で自分に価値を見出せない人との共依存関係。………なんて哀れで愚かな人々。
誰であろうとも、生まれた時点で特別な存在なのに………。
無理に何かをしなくても、存在しているだけで十分なのに、それだけでは満足できない人々が焦燥感の中でやる必要もないことで人生を消耗し、半ば強引に生きていることを実感する。
生きがいや、やりがいを追い求め、いつも何かに自分を駆り立てる。けれど、そんな自分と不一致な生き方が長続きするはずありません。
健康を害するか、精神を病むか、いずれにせよ自分らしい人生とは程遠い結末を迎えるのが世の常。それならば、周りとの距離感を大切に、無理に周りと協調しようとしないこと。
決して周りに踊らされることなかれ。
人は人、自分は自分。
自ら踊れ、自らのペースで。
ゆるく脱力して自分らしく生きよう。
無理に何かをしなくていい、誰とも繋がる必要もない。
誰を頼らずとも、自分を拠り所に、心の赴くままに生きればいい。