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自分になるために他人を求めるのは尊い
恋する乙女を演じ、恋する自分に酔っているだけ。でもそれでいい、恋している間は積極的に何にでもなれるから。
とにもかくにも行動することが大事だから、その原動力として恋でもなんでもいいから使うといい。
相手のために自分が変わりたいとか、もっと美しくなりたいとか、かっこよくなりたいとか。
後から恥ずかしくなる黒歴史、それでも全部が尊い。そして、実際に付き合ったら何か違ったっていいんだよ。
はじめから恋愛ゲームがしたかったわけじゃない。恋人になることが目標じゃなく、本当の自分に近づくのが目的だから。
好きとは、気になるの別の言い回し。気になるから共にいて、「互いに一人ではできない新しい体験をしませんか?」ということ。恋愛ってそう。
しかし愛されたいと思う一方、他者からの愛情を重いと感じる。なぜなら、愛はやがて愛着から執着へと変わるから。
双方がそのことに気づいた時にはもう遅く、愛憎へと変化した後。
互いの物理的、精神的な距離が近ければそれだけ負のエネルギーは溜まりやすい。だから互いの距離感が大切、適切な距離は適時変化し続けるため見極めねばならない。
運命とか、恋とか一目惚れとか。
ぜんぶ生への執着のためだろうか。
出会いとは、そういうものかもしれない。
人は執着なくして彩りある人生は歩めぬのだから。それならば、もう逃げも隠れもしなくていい。
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カルマの応報
男女の契り、雌雄一対の業、穢れと清め。
好きと言えぬ、愛していると言えねば何も進展はしないのだ。
行動を起こさねば、同じ場所を巡るのみ。
たとえ一時的に恥ずべきことでも、常識的でない言動であっても。
キレイではなくとも、自らが穢れた役割を演ずる場面も来るのだ。
自分が手を汚さねば、他の誰かがそうすることになるだけなのだ。
他の誰かのために、自らが汚れ役をしなくてはいけないこともある。
この世は無常で無情、穢れなきままではいられぬ定め。
自分勝手だって自己嫌悪になる人もいるけれど、周りと自分との関係性においてそんな野暮なことは考えなくていい。
ときとして、傍若無人に振舞い穢れた行為や過ちを繰り返す。
でもこの世は清廉潔白のみで成り立たず、清濁併せ持つ。
私は真っ当な人生を歩んできた、清廉潔白な人間だなんて言うまでもない。
キレイも汚いもない、あるのは肉欲と情欲。
人間やこの世界って、奇麗なことだけじゃない。
美しさはこの世のほんの一部分にしかすぎないことだって。
汚れと穢れの違いくらいわかる。
人生における正しさなんて、自分が勝手にそう思い込んでいるだけのもので、過ちは償うことで次に進んでいいものだ。
信じられない、信じたくない現実、全部欲だということ。
人は何か崇高な使命や宿命を帯びて生まれ来ると信じていた、でもただ欲望に忠実なだけだった。
動機やきっかけは欲でいい、でも多くの場合、それからも欲から抜けられず欲にまみれた人生となる。
一度手に入れたものには愛着がわき、手放せなくなる。であれば、はじめから求めなければいいのか、それは違う。
居てもたってもいられない欲の衝動を押しとどめる必要はなく、けれども、その欲は永続するわけではなく、役目を終えたら執着となる前に手放さねばならない。
確かにはじめは欲でいい、ただし、ずっとそうである必要はない。
不要になった欲望は、いつか必ず手放す時が来る。その時が次に進む合図。
欲から欲に渡り歩いた先に、自分の本当にやりたいこと、たどり着きたい場所、出会うべき人がいる。
たとえ欲望渦巻く世界であれ、自分次第でいかようにも生きられる。
泥沼から蓮の花が咲くように。
この穢れた世に、あなたという花が咲くのだ。
あなたのために作ることはないけれど、あなたのおかげで作れています。
- 最果タヒ
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