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椎葉村の那須氏

ずっと昔、日本は二つに分かれて大きな戦いをしたといいます。

一方は平家。
一方は源家。

両家共に元々は皇族の子孫〔賜姓皇族しんせいこうぞく〕です。
(この時代、一定の代が続くと皇族を退く習わし〔賜姓降下しせいこうか〕の為、有力な元皇族が増え、その一族が栄はじめていた〔皇親賜姓こうしんしせい〕)

その戦は源平合戦と呼ばれ、現代まで伝えられることとなりました。

そんな源平合戦もいよいよ終わりが見えた頃、時は1185年3月22日頃、讃岐国屋島にて行われた戦い(屋島の戦い)にて、「平家物語」に描かれる有名な「扇の的」のシーンが訪れます。

扇を掲げる平家の挑戦に、源義経は自分の陣営から弓が上手な人物を急ぎ探し集めました。

そこで弓上手と知られていた那須為隆ためたかが推挙されますが、戦傷のため万全ではなかった為、かわって弟の宗隆むねたか(与一)が務める事となりました。

これは武家の習いもありますので、一旦は、兄が選ばれ、弟の与一が歩み出るという一連の流れだと思います。
(失敗は死を意味し、家督にも重大な損害が出てしまう為)

ただこの流れにも後の那須家の棟梁である、与一は現場の侍大将であった、義経にきちんとその場のでたらめな状況から成功の確率は低い事をキチンと伝えているのは流石です。
(海から吹く逆風の中、70メートル以上も先の小さな扇の的に命中させることなど凡そ不可能)

しかし、ここは与一以外の人選はあり得ぬ状況。
幼少期の頃、兄の為隆と共に偶然義経公と出会い直々にスカウトされ、源氏に加勢する形で戦場に参加していた身上とはいえ、那須氏はそもそも平家流れであり、歳は10代と若く他の武将たちの様々なしがらみを鑑み的を外した時のことまで考慮すると、与一の他にこの大役を果たせる者は居なかったでしょう。

三人の代表者の中から与一が最終的に選ばれるという形骸的な流れを見てもそういうことであったろうと思います。

ともあれ、そこはかの義経公、皆様もご存じの通り、若干16歳の与一の進言をさえも面白がるかのように、「与一、当たるぞ!」的な明るいノリで送り出し、その後のまるで映画のような劇的な名場面へと至るのでした。

無事に的を射止めた与一、一息つく間もなく更なる困難が降りかかります。
見事に的を落とした与一を称え、平家の武将が舞を奉じ始めたのです。
義経はその与一を称える平家の武将を射るように命じ、与一は立場的に仕方なくその命に従い、その武将を討ち果たす事になったのです。

射るように命じた義経も、相手の雅な計らいは心得たうえ、それでもなお敵方の将を討つよう命じたのは、時代の流れを意図してのことであったろうと思います。(これはいくつかの戦場において、馬や船の漕ぎ手を狙わせた命にも表れている)

このように「扇の的」は、うつりゆく無情な時代背景を見事に描くと共に、後の武家社会の到来を確定づけ、平安時代の終焉と動乱の幕開けを肌で感じていた当事者たちの心情にも思い巡らせることのできるものです。

「屋島の戦い」の数か月後、長く続いた日本を二分する戦いはようやく終わり、先の戦で功績のあった那須与一は若くして那須家の当主となりました。

「壇ノ浦の戦い」より敗走する平家の人々は方々へと落ち延び、その中に平清盛の孫にあたる鶴富姫がいました。

鶴富姫一行は、現在の宮崎県東臼杵郡椎葉村にたどり着き暮らしはじめたといいます。
数年後、鶴富姫の行方が椎葉村にあることが源頼朝の知るところとなり、追討の命が那須与一へ下ります。

ただこの折、那須与一は病の床にあった(この後二十歳前後の若さで亡くなったといいます)ため、与一に代わり、弟の那須大八郎宗久が椎葉村へとやってきたのです。

その宗久が椎葉村で目にしたのは、神々しいほどの大自然の中で慎ましく暮らす鶴富姫たちの姿でした。
その姿に心打たれた宗久は、源頼朝へ任務遂行の噓の報告をします。
その後暫し椎葉村に留まった宗久は村の人々へ農耕を教え、平家の守り神である厳島神社を建立しました。

やがて、宗久と鶴富姫との間に姫君を授かることとなりました。
おそらく鶴富姫と村へとやってきた人々と、宗久に従ってきた武将たちの間にも同様のことがあったことと思います。
自分たちの命を見ぬふりをしてくれるのですから当然の流れでしょう。
そもそも誰もが協力し合わねば生きていけない厳しい自然の中、誰も彼もが家族となっていくのが必然です。

そんな椎葉村での暮らしぶりにも慣れ、村での永住を切望する宗久たちのもとへ、無情にも幕府から鎌倉へ戻る旨の命が下ります。
結局宗久は、その後生まれた姫君の顔を見ることはできませんでした。

宗久と共に来ていた、村での暮らしをすっかり気に入った一部の武将たちは、”鶴富姫たちを見張る”というような理由で残りました。

事実、侍大将である、源頼朝に堂々と噓をついているのですから、万が一に備えて自分の棟梁である宗久の代わりに誰かが残らねばならなかったでしょう。(そもそも当の源頼朝は噓の報告に気付いていたでしょう、なぜなら何年も宗久たちを放置しているのですから)

やがて時は流れ、鶴富姫の子孫は那須と名乗ります。
そして村へと残った武将たちの子孫と、鶴富姫たちと共に来ていた人々の子孫が一つとなり村の名前ともなった、椎葉の姓を名乗るようになりました。

そうして、那須家と椎葉家の人々は厳しい自然の中で共に助け合いながら暮らすようになったのです。現在も椎葉村の半数近くが、椎葉さん、那須さんという名字なのだそうです。
これが源氏と平氏の子孫が共に慎ましく暮らす、椎葉村のお話でした。

今回のエピソードからもわかる通り、この日本という国では、必ずどこかで私たちのルーツは繋がっているものなのです。
病める者も健やかな者も、貧しい者も富める者も、結局は同じDNAからはじまっている家族のようなものなのですから。

那須氏のルーツ

ここで余談といたしまして、那須氏のルーツについて。
もとは須藤氏であり、藤原北家であったと称し。
阿倍氏の祖、第8代孝元天皇の第1皇子大彦命へと繋がり、神武天皇以前では、朝鮮半島の古代王朝や果ては中東の古代王朝まで遡ることができ、そもそも古代の日本から海路ではるばるその地に赴いた形跡があり、大本は一万年以上続く血脈、かつ縄文時代前期まで遡ればそこから更に一万年以上続く系譜であるといえます。

このように那須氏に限らず、現代の日本人の家系のルーツは途方もなく古いものです。つまりは日本人であればもはや誰も彼もが親類といって差し支えないでしょう。

おわりに

私の旧姓は那須といいます。
私は生まれも育ちも四国で、現在は九州に住んでおり、私生児であったため母親再婚後に別の姓になっています。
那須という姓は、椎葉村で亡くなった祖父の姓です。

私の母親が幼い頃に起きた豪雨によって川が氾濫し、家を含めすべてを失った祖父でしたが、その後、母親を含めて、5人の女の子を育て上げました。
つまり直系の男子には恵まれませんでした。

林業の棟梁であった祖父は大変立派な人物で、一度道を踏み外した青少年と共に森で働きながら、更生の助けとなっていたそうです。
祖父はあまり長寿ではありませんでしたが、その葬儀には立派になった若者が沢山参列したそうです。

私は現在、そんな立派であった祖父の名字であり、由緒ある姓をデジタル上の名字としておかりしています。
実際に母親が再婚するまでは那須姓だったこともあり、現在の名字よりも親しみを感じています。(勿論現在の名字も大切に思っています)

私は幼少期、祖父の葬儀に出席するため母親に連れられて、神が住むと謳われる山間にある椎葉村に行きました。
その折に親戚の方々と会ったことがあります。
はじめて会った親戚の方々はみんな一容に慈しみ深い愛にあふれる人々でした。あれからもう随分時間が経ちましたが、当時を懐かしみつつ当稿を書きました。

タイトル画像

岡勇樹さんよりお借りしています。
ありがとうございます。

プロフィール

私、那須ノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。


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