多様性と相対性の色眼鏡
人はだれしも潜在的に必要とされたいと思う、ゆえに誰かの役に立ちたいと願う。感謝されたい、という思いがいきすぎると褒められたい、好きになってほしいにかわる。つまり執着。
………人間はそうした裏腹な思いを秘めながら生きる定め。
見れば見るほど、この世は相対的だ。
学校や街中で散見される若い凸凹女子ユニット。
美女と野獣カップル。
ヤンキーに憧れる眼鏡っ子。
不釣り合いなお姉さんに憧れる真面目君など。
互いにかけ離れているからこそ惹かれあう、お互いを引き立てるための一時的な同盟関係。
これらの相反する関係がなにゆえ起こりえるのか。それはつまり、相反する相手の近くにいれば強制的に自分を変えられるからだ。
自分が変わればそのことに関係した相手は役立てたことになる。ついでに相手も自分の影響で変わるという、ウィンウィンの関係だ。しかしこの関係は諸刃の剣、互いに感謝しあえている間は円満だが、それも長くは続かない。
仮にはじめはどんなにかけ離れた波長同士だったとしても、同じ空間にいるとやがて振り子の原理同様、共振共鳴により同期してしまう。その結果、いずれ関係はマンネリ化し共に居られなくなる、これが共鳴である。
一度共鳴関係になると、互いに好きかどうかを確認しあったり、褒めあいっこするという共依存関係となる。この関係は長続きしない、共鳴した相手にはもう価値はなく、また別の波長をもった相手に惹かれるからだ。
そうしてまた、正反対の相手に惹かれることで効率的に同期が行われ、結局はすぐに離れるということを繰り返す。ある意味で、自分の周りに正反対な人たちが必ずいるのも共鳴のためといえるだろう。
その結果、多種多様な価値観を持った人たちが生まれ、多様性の時代なんて呼ばれ始めたともいえる。
………これが相対共鳴の仕組みだ。
どうして憧れは置いていかねばならないのか
一体どうして相反する相手が自分の周りに常にいるのかはわかったとして、相対というにはあまりにも自分と離れた波長の存在はどうであろう。
例えば憧れの存在。
人間がどうして他のだれかに憧れるのかというと、そもそも人間は変身願望のようなものをもって生きているからで、これは冒頭にいった「潜在的に必要とされたい」という願望のためだからだ。
人から必要とされるには、今の自分じゃないもっと別の自分にならなければと、そう勘違いしているからである。勘違いとはいえ、そう思うことによって、自分が変わるための規範となる存在を無意識に探すことになる。
その結果、自分とはかけ離れた存在に憧れ、自分勝手に共鳴を覚えるのだ。
完全に自己都合のみのご都合主義といえるだろう………。
ともあれこのように、共鳴は同じ周波数のみならず、何倍にもかけ離れた間にもなぜか起こる。
普段は気弱な子たちが、スーパースターに憧れる現象がその最たる例だし、ライブ会場などで音楽アーティストと共に一体感を味わうのもそうだろう。
球場でスポーツの応援をするのもそう、憧れの存在と同じ空間に居ることで、強制的に自分が変われるからである。
会場で大きな声をだしたり、ジャンプしたり体を動かすのも、より効率的に自分の周波数を変化させるためだろう。
日常によってズレた自分本来の波長を非日常に行くことにより本能的に整えようとしているのだ。たとえ次の日、日常によってすぐにズレた波動状態になるとしても………。
だとするなら、はじめから憧れたり、好きになんてならねばよいではありませんか。でもそれは無理、憧れは自分が生きるために必要不可欠な色眼鏡だから置いてはいけないのです。
おわりに
最後に、後出しで結論を述べてしまえば、自分の軸がブレず、常にありのままの波動状態にいれば、他のだれかなんていらなくなるのかもしれない。
でもそんなの寂しい、虚しい、侘しい。
だから他者が存在する。
………そんな救いのない、寂しい結論で締めることに、些かの心苦しさを感じながらも終わりたいと思う。