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自分を生きる創意工夫が現実創造

自分の創作活動に励むのなんて現代では当たり前。

近年一層重要となったのは、多くの人々がめんどくさがっている自分の作品を届けるという創意工夫。

99%の人々が作ったら満足して自分の家の倉庫にしまい込んでいる。

これを自己満足という。

その作品を今か今かと待ち望んでいる存在がいることに気づくこともなく。

なんと荒唐無稽なことだろう、ひょっとしたら世界がなんだか満たされていない冷たい世界なのは自分のせいだと考えたことはありませんか?

自分の能力不足のせいでとかそういう話ではなく、自分の未発表の作品のせいで、その作品を見られない鬱憤が溜まった人々が鬱屈とした日々を過ごしているのだとしたら?

「そんなことない! こんなにも沢山チャレンジして私は頑張ってる!」

でも成果が出ていない? そうですよね??

その状態から二つのことが考えられます。

まず、すでにその行動は成就しているという点。

結果が出るのに時間がかかっている、あるいは行動自体に意味があってその結果をすでに受け取り終わっているということ。

つまりはその行動の結果自体、はじめから意味がないということです、その過程で経験する感覚や体験が重要だったということ。

それこそ、自分なんて……とか、己のスキルの未熟さを再確認するための挑戦だったのでは?

誰かが準備した『〇〇賞』とかには何の意味もなくて、挑戦したその自分だけの体験のほうが余程貴重だったのでは?

成果が出ないことにこそ重要な意味があるのでは?

ではもう一つの点は?

それは自分とは無関係であることを確認するためであるということ。

つまりは、自分はそれをしなくていいという確認です。

「よし!これはしなくていい!」(指差し確認)

きっとただそれだけの自分からの優しい合図。

いずれにせよ、次に進むべきタイミングが来たということ。

次々自分の中からやってくるアイデアはどんどん実現していいんです、だから今こそ新たなチャレンジの時です。

無我夢中と好きだという自我のジレンマ

「自分と無関係?? そんなことにこんなにも惹かれるはずないでしょ!?」

あ、はい……でも、そうですよね??

自分がやるべきことならすぐに成果が出るハズ。

無我夢中とはそういうことだから。

この紛れもない事実がそのことを教えてくれているのでは?

手放す時が来た、そう教えてくれている。これは諦めではないのです、どんなに小学校が大好きでもずっとは通えないですよね?

もう十分にその好きなことから学びは得たハズ。

そろそろ手放して次に進もうね?

そう自分からメッセージが届いているのです。そしてその先にはたくさんの出来事が手薬煉てぐすね 引いて待っている。

その先で待っている人々はいつまで待てばいいのでしょう?

自分の寿命は永遠ではありません。

本来なら小学校に通う時間すら惜しかったのです、それを確認する場だから『学び舎』と呼びます。

自分は周りと違っていて当たり前、誰もが自分で「ボク、天才じゃん!」そう気づくための学校や社会です。

だから一秒でも早くそのことを思い出し、一刻も早く自分の芸術活動を始めねばならないのです。

自分の本当の作品、それが何であるかはもうお分かりの筈。

『自分を生きる』ということ、それがたまたま色々形を変えて自分の人生を織り成しているだけ。

勉強、仕事、子育て、家事、介護、遊び。

形や内容はなんであれ、自分がその瞬間に取り組んでいる、そのすべてが自分を生きるということです。

それなのに、

勉強は苦手だから好きじゃない。
明日も行きたくない会社。
本当はお金なんかほしくない。
地位や名誉なんてくだらない。
憂鬱な子育ての日々、でも口に出せない。
不仲だった両親の介護、嫌に決まってる。

なんですかそれは。

それらはただの自分の感情や思考です。

自分を生きることのごく一部の小さな部分。そのひとつひとつに自分で意識をフォーカスしているから辛くなるのは当たり前。

全体で一つ、自らの行動のすべてが自分を生きるということ。

いちいち律義にそれらすべてに答えなくていいのです。

例えば、ご自分のnoteの記事に5万のスキが集まってそれらのすべてに答えられますか?

そんなの無理に決まってます、これは意地悪な質問でした。

でもそういうことなのです、スキをする人もお返しなんて求めてない、ただ心が動いて自動的にスキを押してしまっただけです。ただそうなったことがないから、そうなったときのことを想像できないだけ。

実際にそんなにたくさんの反応が来たら、その人は物凄くやる気に満ち溢れてますます意欲的な活動を始めるでしょう。

そうなってはじめて、律儀にスキに答えるよりも、自分を表現することのほうが、皆にとって有意義だとわかるからです。

でもそれも致し方のないこと、自分を生きることの大切さを理解していない人がこの世界の大半だからです。

無条件のパトロン

人間が誠に自分を生きたとき、必ず周りが無条件に自分を応援しようとします。これは自然の流れなのでありがたく受け取ってあげねばなりません。

何故なら、自分にとって刺激となったものに対して、人はお返しをしたいとそう自然に思うからです。その形はお金に限らず物であったり言葉であったりあらゆる形状をしており、これを恩返しといいます。

ただし相手にとって、必ずしも良い刺激とは限りません、ですからその場合は、自分にとっては好ましくない形で跳ね返ってくることも多い、これを意趣返しといいます。

いずれの形であれ、自分を支援しようとする人や反発する人々は、恩返し(意趣返し)という形で自分を表現しているのです、つまりこれは『与えるという豊かさ』のことですからそれを拒否する行為は、結果的に自らの表現の活動の幅を狭めることになるのです。

何故なら、自分が好ましかろうが、好ましくなかろうが、『受け取る豊かさ』を自ら手放すことになるからである。

だから支援者に遠慮は不要、そんな暇があるなら次の作品を作り出そう。

自分のパフォーマンスがこそが最高の恩返し。

周りからの称賛にいちいち歩みを止めなくていい。

自分が無条件に夢中を体験するように、彼らはあなたを体験してるだけ。

だからあなたが止まると彼らの体験もそこで終わり。

それが無条件で見返りを求めずにあなたを周りが援助してくれる理由。

その上で自分をプロデュースすることが求められる時代。

夢中なことをしながら、キチンと自分を紹介しよう。

自分という存在を世界中に届けよう、世界の津々浦々に至るまでです。

そのための創意工夫を楽しんでやろう、それ自体を発信しよう。

人生のすべてを晒すことを恐れなくていい。

周りとは結局自分の分身に過ぎないのだから。

本稿はこの曲を聞きながら書きました vol.009


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