死別した父親の年齢になって考えること[426]
今日は自分の内面的なことを記録したいと思います。私は小学2年生の時に37歳の父が病気で亡くなりました。多くの悲しみを背負ったはずの私ですが、父の葬式を終えてから3年生になるまでの記憶は全くありません(おそらく相当のショックだったので、その記憶は無意識にどこかへ追いやられた可能性があります)。私の記憶の範囲で分かることというのは、幸いにもその後自分の選びたい道を進むことができ、支えてくれる家族や友人に恵まれてここまで来ることができたということです。
最近、娘が9歳になり私も36歳で新しいオランダでの生活にも少しずつ慣れてきたタイミングで、「私の父は、自分が娘の今の年齢ぐらいの時にこの世を去ったのか、、、人間いつ病気になったり突然事故に遭ったりして命を落とすか分からないなあ。だから、これからの自分がどう生きたいのかを本気で考えたい」と思うようになりました。これは、オランダで暮らす"老いをネガティブなことと捉えない"多くの元気な高齢者を目にしたことや、私の年齢が平均寿命からみたおおよその「人生の折り返し地点」を過ぎたことがおそらく原因になっていると思います。
これまで父親の死は子ども目線でしか捉えることができなかったのですが、自分が父親の立場になり、父がこの世を去った年齢になって考えることがいろいろ出てくるようになりました。その中で更に気づいたことは、「私にとって死はそう遠くないところに存在している。人間いつ死ぬか分からないから、その日できることをできる範囲でやろう。」ということです。
父の記憶はどこにあるのか
先述の通り、私は父親の葬式に参列し納骨をした後から3年生に上がるまでの数ヶ月間の記憶が全くありません。母親曰く、「テレビ番組で父親特集みたいなものが流れるとテレビを消していた」こともあったようで、精神的に相当参っていたのだと思います。また、私の中での父親の記憶というのはあまり良い思い出がありません。これはおそらく、父親が亡くなったことで自分がショックを受けないように、無意識に嫌な思い出ばかりを記憶として残しているのかもしれません。そのため、私には父親のはっきりとしたイメージがなく、結婚して「まともな父親になれるのか」と不安に思っていました。その時、母親から「自分がこうありたいと思う父親になれば良い」という言葉は今でも私を支えてくれています。
オランダで変化した死生観
オランダの高齢者は、すべての人ではありませんが、穏やかで人と話すことが好きだという印象があります。先日、公園で出会った娘のクラスメイトの祖母の方と話をした時もそう感じました。妻がボランティアで関わる人々の話なども聞いていると、オランダに暮らす高齢者の方々は、自分のことで精一杯というよりも「余生を楽しむ」という感覚が強いように思います。もちろん全てのオランダの高齢者ではありませんが、私が暮らしの中から感じたのは、老いを決してネガティブなこととして捉えず、むしろ万人共通のネタとしてジョークにして笑い飛ばすということです。こちらで暮らす人たちを見ていると、私たちも元気をもらうことが多いです。おそらく若い頃に我慢を強いられストレスを感じるような時代を過ごすのではなく、自分らしく生きてきたからこそ今の姿があるのではないかと思います。
「より善く生きたい」
最近、これからの生き方をしっかりと考えていきたいと思うようになり、仏教について学ぶようになりました。そもそも、宗教という概念は私にとってあまり身近なものではなく、私自身が無知であるが故に、利権や争いの火種だという印象が強くありました。それまでの私は、科学技術こそが真理であり、宗教はそれを捻じ曲げて解釈させるのではないかと考えていたのです。しかしオランダに来てから、宗教というものが信仰の度合いに差があれども、この国はキリスト教が深く信仰されていた国だからこそ、他の人の痛みに共感したり、困っている人がいたら手を差し伸べる(それは宗教や宗派などに関係なく)人たちがたくさんいて、そういった愛のある社会は少なからず宗教が関係していることを知りました。
私がこちらで仲良くさせてもらっている家族や友人もそれぞれの信仰を持っていますが、それに関係なくみんなが穏やかな気持ちで過ごしているように感じます。そういった人たちを見て、科学技術はあらゆる物事の仕組みを解明するものの、人の心までを解明できるところまではいってなくて、「自分はどう生きたいのか」「私たちにとって幸せとは一体何か」といったような哲学的なテーマは、今の科学技術からはまだ学ぶことができないことがわかりました。また、「お金がないと不安になるけれど、お金があっても本当の幸せは掴めない」ということを、ウェルビーングについて学んだ時にとても強く感じました。むしろ実利的な思考が優先されてしまい、「心の豊かさや人とのつながりから感じる温かさ」を私は忘れてしまっていたように思います。
まずは自分に身近だった「仏教」を学んでみよう
このような社会そしてそこに暮らす人々に出会い、自分にある「心のあり方」「自分の生き方として学べること」を探している時に、ある文章を読んで自分の考えがある程度まとまった気がしました。
それは中井和夫さんの「きのこの匂い」という文章です。これは、IBDPの日本語Aの授業の中で扱った文章で、独特の日本家屋の匂いや自然を身近に感じるような場所に親しみを抱き、それが神道と関係していると述べられている部分がありました。これを読んで、いわゆる「おばあちゃん家の匂い」みたいな畳の匂いや木造の家の匂いがとても好きだったことを思い出しました。
神道とは少し異なりますが、ちょうどその時娘が歴史の漫画を読んで「お父さん、ブッダって知っている?この人、自分はお金持ちやったのに全部捨てて、しんどい修行したんやって。すごい人やな〜。」という話をしてくれました。その時、私は以前ブッダに関する本(藤田一照さんの『ブッダが教える愉快な生き方』)を一度読んだことがあって、彼の「善く生きるための実践」にかつて興味を持ったことを思い出し、仏教についてまずは学んでみようと思いました。
今は動画や書籍、HPなどから仏教について学んでいるのですが、これがまたとても興味深く、私が今学びたいと感じるものがたくさんありました。自分の信仰をどうするかではなく、まず知らないことを学んでみようという姿勢でいろんな情報に触れています。仏教では、人間が抱く「苦しみ」について色々な捉え方やそれを乗り越えるための心構えを学ぶことができます。
死を身近に感じ、ポジティブに生きる
「私の父は、私が娘のこの年齢の頃にこの世を去ったのか、、、」
今すぐにこの世を去るというのを現実的に考えることは難しいですが、「死はいつかやってくるもの」という感覚は自分の中に確かにあります。
仮に今この世を去ると考えた時、愛する家族や友人にどんなことを伝えたいだろうかと考えてみました。正直なところ、我が子についてはまだこんな幼い時にここからの成長が見られないと思うと、言葉に表すのが難しい虚しさに襲われました。それは妻も同じで、一緒に老いていくことができないと考えると同じ虚しさを感じます。どうしても別れが避けられないのであれば、ありったけの感謝と自分がいなくなることの謝罪と2人の人生が幸せになることを心から願うということを伝えたいと思いました。
私が父と別れる前、何を伝えられたという記憶はありません。私の父は一体どんな気持ちだったのか、今は知る由もありませんが、そういった身近な人の死を経験したからこそ自分にとって死を近くに感じることができるのだと思います。しかし、死を近くに感じることは決してネガティブなことではなく、誰にでも訪れる老いや死の苦しみを身近に捉えることができるからこそ、そこに現れる感情を飼い慣らすことができるように思いました。自分に残された期間はどれぐらいなのかはわかりませんが、やがてくる人生の終わりに向けて「毎日を精一杯生きよう」という気持ちが強くなっています。
「一日一生」という言葉
私が中学生の頃、「一日一生」という言葉を聞きました。それがどんな意味を持つのか、はたまた私たちの人生にどのような影響があるのかが全くわからなかったのですが、最近その言葉を思い出すようになりました。その言葉を聞いたのは中学3年生ぐらいの時で、そんなことはこの20年間思い出すことはありませんでしたが、最近この言葉ふと思い出したのでとても不思議な気持ちになりました。
この言葉について調べてみると、「今日一日を一生だと思って一生懸命に生きる」という意味と示されており、私がかつてその言葉を聞いた時と同じものでした。自分の思考が過去や未来に行ったままの状態は、不安やストレスを感じやすい状況であるらしく、かつてマインドフルネスについて学んだ時も自分の気持ちや集中を現在に持ってくることが大切だと知りました。「一日一生」という言葉は、まさにその考えとピッタリです。今この瞬間、今日一日になるべく集中にして、身近な人たちとの関わりを大切にしたいと思うようになりました。
小さな「善」を積み重ねる
私の大きな望みは「私たちが生きる世界から争いがなくなってほしい」「地球環境の問題をみんなの力で解決したい」という気持ちがあります。しかし、それを急に実現できることはありません。毎日の小さな変化を繰り返して大きな変化につなげることが大切だと理解した私は、その日にできる「善」を心がけようと思いました。それは、家族・友人、教室に来る子どもたち、近所の人を大切にするという感じです。カミュの「ペスト」に登場するベルナール先生のように、どんな絶望的な状況だったとしても"今自分ができること"に焦点を置いて、日々善い行いをする気持ちで生きていきたいと思っています。
また、大きな目標だけに目を向けてしまうと、自分の無力さや実現可能性に気持ちが囚われてしまい、自分の今に集中することが難しくなります。大きな目標を掲げつつも、そのために日々できることは何かということを考え続け、実践し、自分に足りないものを学び続けるということを繰り返していきたいと思います。私の仕事も一旦は夏休み期間に入りますので、心を休め整えてまた新しい自分としてできる実践を考えていきたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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