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「好きじゃない科目、苦手科目を勉強するのは意味があるの?」と聞かれて【279】

 国際バカロレア(IB)のMYPで学んでいる生徒の日本語サポートで、中学理科の「電気と抵抗」の単元の説明をしていた時です。

 その生徒はいつも学ぶことに意欲的で、どんな科目も手を抜かずに取り組んでいます。それでも、日頃勉強していて感じることがあったそうです。それは、

「私、これまで化学変化とか今やってる電気の勉強して思ったんですけど、こういうのに全く興味が持てないんです。自分はきっと将来この分野の仕事はしないだろうなと思うんですけど、それでもこれを勉強しても意味があるんですかね。」

という内容でした。

学校という大人が作ったシステムの中で、学びについて違和感を抱くことは健全な反応で大切なことだと思います。
 自分だけではどうしようもないこともありますが、感じたこと考えたことを元に次に自分はどう行動するのか、違う学び方があるところを探すか、自分なりの納得解を探してその学びを続ける、という判断につながっていきます。

 私は大学に在籍している時から学習塾で小学生から高校生の学習に携わり、大学卒業後は公立高校の教員として働いてきました。そして、2020年からはオランダで子どもの学習をサポートする教室での講師を始め、日本以外の価値観を持つ子たち、日本とは違うカリキュラム学校に通う子どもたちの学習に携わるようになって、自分なりに教育を捉える視野が少しは広がったように感じています。

 いろんな学校に通っていても、子どもたちが抱く疑問にも共通していることが分かり、そこから私が生徒に伝えていることを記録しておきたいと思います。


食わず嫌いをしないための学び

 大学でも専攻以外の分野について学ぶ「リベラルアーツ」があります。人間として偏りのない幅広い知識を持つことが、これからの社会で生きる上で求められています。つまり、より広い視野をもつことが必要である現在、専攻以外の学びも重要だということです。

 例えば、食事の話で考えてみたいと思います。食わず嫌いで食べたことがなかったものを、実際に食べてみたら「美味しい」と感じることもあります。また、その時は嫌いだと感じても、後になって「あれ食べてみたい」という気持ちになったりすることもあります。

 私が大学生の頃、社会環境から人間の発達について研究することが専攻でした。ここで、人間の発達を考える場合、歴史や政治、地理などに加えて統計や人間の脳の発達など、「社会」に関する科目についても広く学ぶ必要があるとともに、社会以外のジャンルも学ぶ必要がありました(実際に学ぶ必要があるとは感じたものの、そんなに学んだわけではありませんが、、、笑)。
 このことから、社会を専攻する学生は他の分野を学ぶことで見えてくるものもあると思います。また、その分野だけで解決できることはほとんどなく、何かについて研究したり学ぼうと思えば必然的に科目や分野をまたぐことになります。

システムとしての学び

 これは大人の事情という側面から考える理由です。人間の社会というのはとても複雑な構造でできています。
 そのため、今の学校が一人一人に合わせて全て「最適な学び」が提供できるシステムではないことも現実としてあります。例えば、高等学校の教育を修了したという指標が必要で、卒業という資格を手に入れるために必要な単位数、必修科目、その学校ではこの科目しか実施できないなど、子どもの学びだけを優先できない事情もあります。

 ただ、これについては、今後情報化が更に進行し、個人に合った学びが提供されるようになっていくかもしれません。しかし、人工知能によって最適化された学びが、本人の進路決定においても最適かどうかは分からないと私個人としては考えます。そもそも、学習者自身が考える「自分に最も合った学び」自体が明確になっていないことも現実としてあるのではないでしょうか。

 元来、学びというのは枠組みがないものです。多くの人が協同で社会を支えるために、時代に合わせて作られた枠組みであって、それが全てではないという意識も重要だと思います。その枠組みの中でできることを考え、時にはその時の枠組みから出て違うものに移るという判断も時には必要になるでしょう。
 生徒たちは、学びの中でいろんな知識、世界に触れて、いろんなことを感じる中で自分に合った学びや生き方を選択するんだと思います。学びというのは、与えられたことを消費するようなものではなく、自分がより幸せに生きるために学ぶと考えて取り組むかどうかでも効果は変わるかもしれませんね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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