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人類の旅立ち

第1章

 博物学者ダーウィンは、イギリス海軍の測量船ビーグル号での5年間の南太平洋周航の後、名著『種の起源』(1859年)を著した。その後、ハックスレーの『自然に於ける人間の位置』(1863年)や、ダーウィンの『人間の由来』(1871年)などにより、一般の人々はもちろん、科学者たちさえも、人間は現存する類人猿の直系の子孫であると考えた。
 しかし、この誤解が、ミッシングリング(失われた鎖の輪)を発見することに人類学者たちを駆り立てた。
 そして、化石人類第一号が、1856年ドイツのデュッセルドルフ付近のネアンデルタール(渓谷)の洞窟から発掘された。これは、ネアンデルタール人と呼ばれている。
 第二号は、1890年にジャワで発掘される(ジャワ原人)。
 続いて、北京原人、アウストラロピテクスといった順序で、ミッシングリングをつなぐ化石人類がどんどん発掘されてきた。現在では、意見の一致しない点もあるが、一応、私たち人類の祖先の系譜が作られている。
 この地球が宇宙空間に出現したのは、40~50億年の昔といい、この地球上に生命が誕生したのが、20億年以前と想定されている。その時の長さに比し、我々人類の歴史は、ものの数には入らないほど短い。
 現在までに発掘されている一番古い化石人類でさえリーキによって1958年イタリアで発掘された約1,000万年前に生存していたと考えられているオレオピテクスである。身長110~120センチメートル、体重40キログラム、二本足による直立歩行が出来たらしい。
 オレオピテクスについては、少々疑問が無いではないが、文句なしに、化石人類で一番古いものとして認められているのは、1924年ダートによって南アフリカで発掘されたアウストラロピテクス(猿人)である。前期旧石器時代、80~100万年前に生存し、身長は120センチメートル、石やカモシカの骨で作った道具を使い、動植物を食べていたらしい。まだ、言葉を話す能力はもっていなかったようだが、しかし住居はあったと考えられている。
 アウストラロピテクスよりも年代は古いが、180~200万年前に生存していたといわれる、形の上ではより進化しているホモ・ハビリスと命名された化石人類が、1964年に東アフリカで、リーキによって発掘された。進化の系列は、アウストラロピテクスとは別であろうと考えられている。
 これに次ぐものは、ホモ・エレクトスとよばれている化石人類である。彼らは、約50万年前に生存し、1890年にデュボアによって、ジャワで発掘されたジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトス)と、1927年にブラックによって、北京郊外の周口店で発掘されたペキン原人(シナントロプス・ペキネンシス)とである。前者の身長は170センチメートル、後者の身長は155センチメートルで、手は物を握れるようによく発達していた。道具を自ら作り、火の使用を知っていたという。言葉を話し、社会生活を営んでいた形跡がある。
 中期旧石器時代にあたる数万年から十数万年前に生存していたネアンデルタール人(旧人)が、次に続く。先に述べたように、最初に発掘された化石人類であって、身長155センチメートル。槍による狩りをし、様々な道具を作り、火を使っていた。洞窟にも住んだが、家屋を造っていた跡もある。言葉も話し、社会的生活を営み、死人に対して墓を作っていたらしい。
ネアンデルタール人の仲間で、極めて完全な姿で発掘されたのが、アムッド洞人だという。1961年に、イスラエルのアムッド洞窟で掘り出されたもので、頭はネアンデルタール人であるが、顔はホモ・サピエンス(現生人類)で、移行型ではないかと考えられている。約4万年前に生存しており、かなり進んだ文化を持っていたようである。
 南フランスで1868年に、クロマニオンと呼ばれている化石人類が発掘されているが、2~3万年前に生存しており、新人、即ち現生人類(現代人)である。
 オレオピテクスからホモ・サピエンスまでも進化の過程で、身長が高くなり、体重が重くなっていることはともかく、生活様式がどんどん向上しているから、当然、それを支える脳の進化が見られるはずである。しかし、化石人類では脳の大きさと形からしか進化の状況は推察出来ない。
オレオピテクスの頭蓋容積は、276~529立方センチメートル。アウストラロピテクスは、435~600。ホモ・ハビリスは、643~724。ジャワ原人は、775~900。ペキン原人は、850~1,300。ネアンデルタール人1,300~1,600。アムッド洞人1,800、クロマニオン人1,435。ホモ・サピエンス1,400~1,500。ちなみに、ゴリラは500立方センチメートル、オランウータンは400立方センチメートル。チンパンジーは、400立方センチメートルである。
上で分かるように、脳の大きさは、ネアンデルタール人の方が、ホモ・サピエンス以上であるが、古い化石人類の脳と現代人の脳との特長的な違いは、脳の形に見られる。現代人よりも大きな頭蓋骨をもったアムッド洞人の脳では、前頭部に相当する部分(前頭連合野)の発達が悪い。
 頭蓋骨の内面を見ると、平滑な部分と凹凸のある部分とがある。ドイツの神経病理学者スパッツによれば、平滑な部分に相当する脳の表面(大脳皮質)は発達が完了しており、凹凸に相当する大脳皮質は未発達で、これからの発達が予想されているというのである。現代人の頭蓋骨の内面を見ると、前頭部と側頭部とに凹凸があるので、この部位に相当する大脳皮質(即ち前頭連合野と側頭葉)が、一番発達が遅れている、ということになる。これに対してジャワ原人の頭蓋骨では、サルと同じように、頭頂部に凹凸があるので、この部位に相当する大脳皮質がまだ発達の途中であって、前頭連合野や側頭葉の発達は更にそれからといった形である。
 しかし、上の如くオレオピテクスから現代人までの人間の進化の過程は、いかにして進行したのであろうか。

 我々人類が所属する霊長目というグループは、原始的な食虫目の系統から生まれた。食虫類は小さな目立たない生き物で、爬虫類が君臨していた間は、安全な森の中を棲みかとしていた。爬虫類の絶滅に次ぐ8,000万年前から5,000万年前という期間に、彼ら虫食いは、新しい住み場所へ乗り出していった。そこで彼らは、広がり、変わり、様々に分化していった。あるものは植物を食い、安全のために地下に潜るか、長い足を発達させて敵から逃れた。またあるものは、長い爪と、鋭い牙を持つ殺し屋となった。凶暴で巨大な爬虫類が去った後、またもや原始の原は戦場と化した。
 一方、下草の中では、小さな植物食の動物が進化をじっと待っていた。彼らは、次第に食物の範囲を広げ、視覚を改善し、眼を顔の前面に装備し、手を食物がうまく掴めるように改良していった。三次元の視覚と、精妙な手と、ゆっくりと大型化する脳とを持ち、樹上世界の支配者となっていったのだ。
 3,500万年前から2,500万年前の間のいつ頃か、これら前猿類は真のサルへの進化を始めていた。彼らは長くてバランスを取るのに都合の良い尾を持ち、体もかなり大型化し、いろいろな物を食い続けた。彼らはやがて、枝にぶら下がり手を交互に動かして移動するようになり、その結果、尾は退化し始めた。体はますます大きくなり、樹上生活には厄介になり、地上に降りることをあまり恐れなくなった。
 彼らが住み慣れた森に固執する理由は充分にあったが、にもかかわらず彼らは、地上に下りた。彼らにとって気候は不向きになり、1,500万年前までには、森はとても小さくなってしまったからだ。そこで彼らは既に充分に適応した地上生活者達との競争に挑んだのだった。それは危険なことだったが、進化の成功という点では、利益をもたらした。
 新しい環境に直面して、彼らの前途は厳しいものだった。彼らは、当時の肉食獣よりも優れた殺し屋になるか、当時の草食獣よりも優れた菜食家にならなければならなかった。しかし、草原の供給する食物を直接栄養源にするのに必要な消化器系を持ち合わせていなかった。植物を求める地上のサルは、貴重な食物を得るためには堅い地面を、骨身を惜しまずひっかいたり削ったりしなければならなかったろう。
 けれども、彼らは元々食虫類を祖先とする者達だし、古い樹上の棲み家には、常に昆虫が豊富にいた。卵や、雛鳥、カエルや小さな爬虫類などは、全ておあつらえ向きの獲物であった。地上に下りても、こういう食物源は無くなりはしなかったし、メニューを増やすことをやめる理由もなかった。第一に、彼らは肉食動物界のプロの殺し屋には、到底かなわない。しかし、地上にはいろいろな動物の子供、無防備の個体や病気の個体がいた。従って、肉食を主とした生活の第一歩は難しいことではなかったが、素晴らしい獲物は長い肢で即座に、考えもつかぬスピードで逃げ去ってしまう。タンパク質の固まりである有蹄類は、到底彼らの手の届くものではなかった。
 地上に下りた我々の祖先は、既に質の良い大きい脳を備え、良い眼と、うまく物を掴める手を持っていた。彼らはますます直立し、速く歩き走るようになっていった。手は移動手段としてではなく、能率の良い武器の掴み手となった。脳はますます複雑となり、明快で急速な意志決定が可能となった。

 道具の使用と製作が次に起こった。これと併行して、狩猟方法が、武器と社会的協力という両面から改善され、彼ら集団的狩猟者たちは、社会の組織化を高度にしていった。
 社会的には人類は、仲間と通信し共同しようという衝動をますます強めたに違いない。音声による意思表示は、より複雑化せねばならなかった。新しい武器を手にするに従って、彼らは社会的グループの中での攻撃を抑制する強力な信号を発達させねばならなかった。他方、敵対グループに対して、より強力な攻撃的反応を発達させねばならなかった。
 この頃に乱婚から単婚へ、更には母系制社会から夫系制社会への転換の前兆があったと思われる。なぜなら彼らは、狩りの複雑さが増し、略奪の旅程が長くなるにつれて、本拠地としての棲み家を定める必要があった。
 彼らの子供達が親に依存しなければならない期間が非常に長いことと、彼らの要求が極めて多いために、女は殆どいつも棲み家に縛り付けられていることになる。ここで、我々の祖先は、両性の役割をますます明確化させたことに違いない。狩りをする集団は、男だけの群れとならざるを得なかった。
 新しく見いだした共同生活の一部として、また食物の供給が定まらないことの結果として、彼らは食物を分配することを学ばねばならなかった。事実彼らの棲み家は、獲物を持ち帰る場所であり、女とその子供達が食料の分配を待つ所でもある。彼らは、授乳中のメスや成長の遅い子供達のために、食物を狩猟集団全員が協力して運んでこなければならなかった。
 そこで発達したのが、「つがい関係」であった。我々の遠い遠い祖先達は、恋に落ち、互いに貞節を保つようになることが必要となったに違いない。なぜなら、そうすることによって、非常に重要な問題を解決するからである。即ち、女は彼女の特定の男との結合を維持し、男が狩りに出ている間、貞節を守るようになる。それによってまた、男同士の激しい性的敵対関係を減らすことになり、群れとしてはより有利である。弱い男も強い男もそれぞれの役割を果たさなければ、うまく共同して狩りを計画・実行することは不可能であり、このことは群れの協力性の発展を大いに助けたであろう。
更に彼らは今や、新鋭の致命的な人工の武器を手にした者であるがゆえに、彼らの部族の内部抗争の原因となる不調和を、出来る限り減らさなければならなかった。
そして更に、一夫一婦制の繁殖単位の発達は、子供達にとっても利益をもたらした。生育に恐ろしく時間の掛かる子供達の保育と訓練という思い負担は、団結した家族単位をもってこそ、解消されるものであった。魚であると鳥であると哺乳類であるとにかかわらず、片親が単独で負担するには荷が重いときには、オスとメスとを繁殖期間の間中、両親を結びつける協力な「つがい関係」が発達しているのが見られる。
 こうして、女は男の助けを信じて、彼女らの義務に励むことが出来た。男は女の忠節を信じて、いつでも棲み家を離れ狩りに出掛けることが出来、彼ら相互間の闘争をも回避したであろう。
 いまや、ここにおいて、直立し、狩りをし、武器を担い、縄張りを持ち、脳の発達した、霊長類の家系に生まれながらも「肉食類の養子」となった人類が、世界を征服する準備は出来た。

- 第一章 1975年某日  了 -

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