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SMよ、人生をひっくり返してくれ② 母のようになりたくなかった

前回の記事を読んだ人から、「怒りの発散をしたいなら、SMではなくスポーツに没頭するとか心理療法でもよいのでは?」というコメントを複数いただいた。ご心配ありがとう。でも、それではやっぱりダメなのだ。

私の場合、人と人との関係性の中で「いたぶる側に回る」ということが、とても重要な意味を持っているのだ。
私が怒れなくなった原因の一つに、昔の母の姿がある。
ある時期から、人に文句を言ったり声を荒げようとすると、ヒステリックに怒鳴り散らしていた昔の母の姿が重なるようになった。そして、「あのような姿にはなりたくない」という強いブレーキが発動する。実家にいたころ、私はそういう人に、髪をつかまれ台所の床を引きずられたり、鼻血が出るまで頬を張られたり(以下自粛)、そんな風にして育ってきたのだ。

ああ、これを書きだすと色々フォローしなくちゃならないので書きたくなかったのだが、今では・・・まぁ仕方なかったと思っている。母も、その母(つまり私のおばあちゃんだ)から虐待を受けていたと聞いたことがある。彼女も怒りの病を抱えていたのだ。過去の事実は変えられないけど、両親なりに精一杯私を愛してくれたと思っているし、受け取ったギフトもたくさんある。虐待の連鎖は、私が断ち切ればよいのだ。

(虐待後の葛藤についてはこの本に書いたので、よかったら読んでね:宣伝)

話を戻すと、誰かにぶつけようとした怒りを引っ込めても、莫大なエネルギーは残る。それを無意識に、私は自分の内側に向けてきたのかもしれない。自分が悪いと思えば、誰も傷つけずに済むし、私も「あのときの母」にならずに済む。それでメンタル以外にも、腕を噛んだり、髪の毛や眉毛を抜いたり、急に投げやりな行動にでちゃったり、色々副作用はあったように思う。

OH、ギャクタイ 根深イネーー。
コレ以上、不幸ナピープル出シチャ駄目ネー。

私は、怒りの感情に母という仮面をかぶせて、心の世界から追放してしまったのだ。きっと本当は違うのに。怒りは醜いものじゃない。私には私の大切な「怒り」があるのに。気高く美しいライオンの毛皮のように、重厚なワニの鱗のように、外側から自分を守ってくれる怒りという感情が。

私は、抑圧した怒りを取り戻すために、人を虐げる母のイメージと自分を統合させる必要がある。追放した物をいったん自分の中に呼び戻して、取り込み、咀嚼する行為だ。そのためには、その対象を演じるしかない。心理学の本を読んで、「母になりかわって会話をしてみる」とか色々やってだいぶラクになったのだけど、根絶治療にはならなかった。もう、実際に自分が一番嫌っている「人に暴力」をやるしかないのだ。

でも、それ、日常でやっちゃあかんヤツじゃないですか。

だから、娯楽システムとしても成り立っているSMに光を見たのだ。しかも、お店なら「プレイ」の範疇で済むように、行き過ぎたことをしないように見ていてくれるスタッフさんがいる(はず)。

これについて、うまい例えをしてくれた知人がいた。
「それって車を時速200キロで走らせてみたいけど、公道でやったら事故になる。だから設備の整ったサーキットで飛ばしてみたいってことでしょ?」
そうそう! まさにそれ!!

うん、ここまで書いていて腹落ちした。前回では、SMに思い至った理由はわからないとボカしたけど、こういうことだったのだ。自分は理屈より先に結論がパッと浮かぶタイプなので、このようなことはままある。

そんなわけで、私はSMの女王様だったTさんにLINEを送ったのだ。

(ああ、結局前回からいっこうに話は進みませんでしたが、次回は進みます)

続く


カラス雑誌「CROW'S」の制作費や、虐待サバイバーさんに取材しにいくための交通費として、ありがたく使わせていただきます!!