見出し画像

その気になれば深ーく傷つけられる人

あけましておめでとうございます。新年一発目から物騒でごめんなさい。題名は、「『心を許せる人』ってマジで何…?」と三が日でグズグズ考えていったん出した答えです。

わたしには何年も前からずっとゆるく連絡を取っている相手がいて、他の人には言えない話をしたりする。だけど、この人は本当はわたしのことを友達と思ってないんじゃないかな、ってよく思う。お互いに恥ずかしい部分をさらけ出しているようで、核心の部分に近くなると馬鹿になったフリをしてはぐらかしてしまうから。「裸でぶつかり合おうぜ!」って言いつつ絶対にパンツは脱がないような薄気味悪さがあるけど、居心地は悪くない。
わたしも彼と話していると楽だけど、心を許しているわけではないと思う。果たして彼に心を許している相手は存在するのかしらと、大きなお世話だけど疑問に思ったりもする。あれ、あれあれ、ちょっと待った。それ言ったらわたしにもいないんじゃない?わたし、実は心を許したことないんじゃない?っていうか、心を許すって何さ?と、かつてない急ピッチで「心を許す」のゲシュタルト崩壊が起こった。
そのまま大掃除をし、紅白を見て、崩壊が止まらぬまま2021年に突入してしまった。

年が始まってからは、少し前に始めたマッチングアプリで何人かとメッセージをやりとりした。驚くほど話していて楽しい相手とも、嫌悪感しか抱けない相手とも、拍子抜けするほど簡単に繋がれてしまった。Amazonでポチるのと同じテンションで素敵な相手をお気に入りリストに入れて、嫌な相手を非表示にし、つまらないと思った瞬間にメッセージも無視した。今までになく残酷になっている自分に驚いて、かなり引いた。
出会う時点で最小のコストしか払っていないんだから、彼らはわたしの拒絶なんかで傷つかない。というか傷ついちゃいけない。わたしも相手に期待しない。盛れた写真のお面に守られたやりとりは、居心地が良すぎて怖い。それなりの楽しさは保証されるけど、ここにいる限り「心を許す」なんてものが成立するのかよくわからない。もう少し続けて様子を見るけど、たったの三日で「心を許す」のゲシュタルト崩壊がさらに悪化した気がする。

そんな中で、今朝、顔を洗っていたら人生で唯一嫌いになった相手を急に思い出した。一度好きになって仲良くなって、振り回されるうちに怒りでおかしくなりそうなほど嫌いになった人。澄ましていたって、弱さもずるさも思慮の浅さもわたしは知っている。その気になったらズッタズタに傷つけることもできるんだからね、と思った。そのとき、わーっと全部がいったん繋がったような気がした。そっか、わたしはその人に心を許してたんだな、と思った。
今のところ、わたしにとっての「心を許す」は、深ーく傷つけられる材料がそろうほどに誰かを知りたくなることで、深ーく傷つけられる材料を与えてまで自分を知ってほしいと思うことで、たまにエネルギーを消耗してまでその人を傷つけたくなることだ。おそらく、わたしが心を許した相手は、その気になったらわたしを再起不能になるまで傷つけることができる。「心を許す」ってすさまじい暴力だ。そりゃ、そう簡単に「心を許せる相手」なんてできちゃったらたまったもんじゃない。逆に、みんながみんな「心を許せる相手」がいる前提で回ってる世の中のほうが空恐ろしくなってきた。

そうはいっても、わたしは人に心を許すことを覚えてしまったし、そのことに救われてしまっている以上もとの状態には戻れない。美しい友情みたいなツラをした暴力で、2021年もいろんな人を深ーく傷つけると思う。だけど、わたしのせいで傷ついて、わたしのこともちゃんと傷つけてくれる人とこれからも一緒にいたいと切実に思う。
新年早々わがままでごめんなさい。わたしの好きな人たち、今年もよろしくね。

P.S.
高校の友達から「えいみーのnote好きだよ」って書かれた年賀状をもらって、思い出したように久々のnoteを書きました。嬉しかったので、今年もちょくちょく書いていきたいです。何卒よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?