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就活という「労働ポルノ」

黒髪・スーツ・ナチュラルメイク、愛嬌があってちょっとM。相手の理想を詰め込んで、それ以外は殺して。
真面目な勤め人ならみんな、一回はポルノ俳優になったことがあると思う。わたしは就活を「労働ポルノ」と呼んでいる。

そんなのありえない、って思う人が大半だと思う。失礼だ、って怒られるかもしれない。でも、エントリーシートを見てみたら納得する人もいるんじゃないか。
わたしの場合、「創造力」と「傾聴力」がやたら強調されて、どのエピソードもそこに収まるように加工されている。舞台美術を作ったことも、暴走する老婆を演じたことも、授業の後に友達と駅で二時間しゃべってラーメンを食べたことも。もっと豊かでばかばかしい思い出のはずなのに、いろんな雑味が切り捨てられて全部「労働力」に回収される。わかりやすくて、簡潔で、全部同じ味。高級黒豚も黒毛和牛も名古屋コーチンもいっしょくたにチャーシューにしてるみたいだ。

記号化して、相手の理想に合うように組み替えて、自分を「労働力」だけの存在に還元する。これって、ほとんどポルノじゃないか。還元するものが「労働力」か「肉体」かの違いだけじゃなかろうか。自分に「創造力」「傾聴力」のラベルを貼るか、「巨乳」「童顔」のラベルを貼るか。その間の距離はそう遠くないように思う。

ポルノの世界では、「エロ」の記号化と一般化で「ヌードの飽和」が起こっているらしい。
90年代のブルセラ・エンコ―ブームで「普通」の子も性を売ることに抵抗がなくなって、今やパパ活もJKビジネスも日常茶飯事。ネットには「JK」やら「ロリ」やら「巨乳」やら、べたべたに記号化されたヌードが溢れかえる。性の楽しみは「記号消費の楽しみ」になって、相手の記号以外の部分にはなかなか目が向かない。そこに至る楽しみを味わえない。だから性がかえって貧困になった、って言う人もいる。

「労働ポルノ」でも同じことが起こってはいないか。
ある年齢に達した人のほとんどが、適性検査で割り出されるせいぜい数十種類の性格に還元される。飽和なんてものじゃないだろう。記号化された(わたしが頑張ってした)「労働力」の部分ばかりが独り歩きして、それ以外はないものとして見られてはいないか。
そう言いつつ、わたしだって「No.1」「成長事業」「初任給〇〇円」っていう企業についた記号ばかり見ている。就活って、お互いがお互いに「労働ポルノ」を見せるイベントなんじゃないかと思う。じゃあ、記号が意味を持たなくなったあとはどうするの?「No.1」じゃなくなったとしても働きたいと思えるのか。「労働力」だけじゃないわたしを受け止めてくれる場所はあるのか。それは必ずしも企業じゃなくていいけども。

いろいろ書いたけど、ポルノであれ「労働ポルノ」であれ、わたしは演じている人が好きだし尊敬する。わたしも「労働ポルノ」を演じている最中だけど、周りが言うほど悪くない。出せるもんは全部出して、お互い性癖に刺さる企業と出会えたらいいなと思う。あとは、お互いポルノじゃない相手とどれくらいちゃんと付き合えるか。それはもう少し先に知ることになりそう。

お互い承知の上で、騙し騙されふりふられ。楽しもうね。大丈夫、がんばろうね!って推しも言ってます。



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