見出し画像

生きることは、食べること

当たり前に聞こえるこの言葉も、当たり前ではなくなっているように思う。「10秒チャージ」というキャッチコピーが生まれたのはいつのことだろうか。エネルギーを時間対効果で語ったこの言葉の耳馴染みが良いのも、頷ける。


普段、食事にどれくらいの時間をかけていますか?


ここで僕のいう食事の時間とは、”いただきます”から”ごちそうさまでした”までの時間ではなく、食事の準備から片付けまでを指す。

あまり時間をかけれない、という人が多いだろう。僕も普段はコンビニご飯で済ませたり、簡単なものを作ってちゃちゃっとすませることが多い。

そうすると、食事はどうしても腹を満たす、栄養を補給することが目的という捉え方になってしまう。

もちろん、栄養補給は生きていくために必要不可欠なので、とても大切なことだと思うが、「生きることは、食べること」には別の意味がある。


この話をするうえで、少し僕の体験を聞いてほしい。


Surinという県がタイにある。僕はそこで1ヶ月ほど過ごした。以前のnoteでも書いたように、1年間バック1つで放浪していた時の話だ。

僕は農作業やゲストハウスの運営などのお手伝いをする代わりに宿とご飯を提供してもらうというスタイルで旅を続けていた。Surinでおこなっていたのは農作業と地域の子どもたちに英語を教えるお手伝い。



農家の朝はとても早い。その土地での1日は火を起こすところから始まった。火を起こすといっても、すりすりギコギコするものではなく、マッチを使う。ガスの通っていない家だったため、土間のような場所で薪をくべていた。

食事を作るうえで火はとても大切なもの。今はボタンひとつ、つまみをひねる、こんな簡単なことで火は起こる。しかしその時は3食毎回、マッチを擦り、薪をくべていた。

簡単な農作業を終えると、起こしておいた火で朝食をつくる。名前も知らないナマズのような魚の素揚げに、ニンニクの香りが香ばしい空芯菜の炒め物、刻んだ玉ねぎと青唐辛子の入ったオムレツにはチリソースがお決まりの組み合わせ。

家族であとかたづけを行った後、野菜の選別やパッキングなどの作業を少しすると、今度はお昼ご飯の準備にとりかかる。そんな調子でいるもので、1日のほとんどの時間を「食べること」に関わることに費やす。

作業、調理、食事、片付け、作業、調理、食事…
合間に行う作業すらも、農業なのでダイレクトに食につながる。

僕はこのときに初めて、「食べること」はこんなにも時間のかかることなのだと気づいた。


人の営みは、暮らしは、「食べること」に根ざしている。

そして、その「食べること」は途方もなく時間がかかる。


当たり前のことだとわかっていたが、その時初めて、知識としての理解ではなく、その事実が自分にとって肉迫するものになった。この事実が見えづらくなっているのは、生活様式の変化や技術の進歩があったからだ。


そもそも、かつて人々は食べるために「共同」していた。
日本において、人々の大半が百姓であった時代、言い換えると、日本のほとんどの地域が「田舎」だった時代、水の管理をはじめとして農作物の栽培には共同が必要不可欠だった。共同しなければ、文字通り「食べていけない」のだ。しかし、その共同が可能だったのは皆が同じ価値観、生活様式を持っていたからに他ならない。日が昇ったら起きて、沈んだら眠る生活。「村八分」という言葉は、葬儀と火事以外の共同を一切断つことであるが、この言葉からも当時の共同の重要性が伺える。共同を断たれると、生きることすらままならない。その時代には、ダイレクトにみんな食べることと関わり合っていた。


しかし、現代ではそうはいかない。


職業も、生活様式も、価値観も異なる人々が、生きることを「共に同じく」することは難しい。雀の声が聞こえ小学生が元気に登校するその時間に、やっとアルバイトが終わり寝床につく大学生がいる。照りつける太陽を見上げ、汗を拭いながらふと手元の腕時計に目を向けるスーツ姿のサラリーマンの傍らで、昼間からテラス席でビールを流し込み、久々の休日を謳歌する男がいる。

人は助け合わねば生きてはいけないとよく言うが、日々生活する中で「共同」が見えづらくなってきている。人々の共同は「食べること」を発端としているが、共同が見えづらくなると同時に「食べること」の意味も見えづらくなってしまっている。みんながそれぞれ違った役割を担うことで、「食べること」との繋がりが遠く、薄くなっていった。

生産、流通、調理、様々な過程を経て僕らは食事をとるが、食卓の上の食事に対して想像力を働かせなければそのことには気づけない。様々な人々の営みの積み重ねをただの一瞬の行為として消費する。

これを僕は悪いことだとは思わない。しかし今、何もしないでこのままにしておけばこの「食べること」が単なる食事として切り取られた状態を続けていくことになるだろう。それはそれで構わないが、「食べること」に、ふと、意図を持たせてもいいのではないかと思う。これはそれほど大それたことではなく、「食べること」を通して人とどう関わっていくかを考えることにほかならない。

食卓に並ぶ一膳に想像力を働かせると、忘れ去られた、見えづらくなった共同がふと顔を覗かせる。生きるうえで人とのつながりが欠かせないように、「食べること」にも人とのつながりが欠かせない。

生きることは食べることだ。たまの休みの1日でもいいから、「食べること」への想像力を膨らませて、自分がいかに暮らしていくかを考えることが人生の豊かさにつながるのかもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?