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異常を嘆き、普通をうらやみ、酒を飲む

どうにも生きづらい。僕の中で生きづらい要因として一番大きいのが、頭が良すぎることだ。

頭が良いというのは、良いことではない。少なくとも、生きることを難しくする

僕なんかでも相当生きづらいので、メンサ会員なんて、本当に辛いだろうと思う。

何事もちょうどよいというところがよい。なまじっか遺伝子と環境に恵まれた人間は、さぞかし幸せに生きられるだろうと思われがちだ。

遺伝子にも環境にも恵まれなかった人と同じくらいに、生きづらい。それはそうだ。どちらも標準から離れ、「普通」に合わせた世界ではともに「異常」だからだ

その関係は、モノサシが変われば容易に逆転する。

以前は自分が頭の良い人間だとは思っていなかった。確かに、生まれ落ちた社会には容易に適応できたし、この社会の規範に不快感はない。比較的健康にも恵まれ、何不自由なく大学を卒業できた。それでも、「頭の良さ」について意識したことは全くなかった。

しかし、社会に出て10年くらい経ったときに、気づいたのだ。自分の感覚は「普通」ではないと。

最初は映画だった。「君の名は」を観て、内容がわからない人がいた。3回観てもわからない人もいた。冗談だと思っていた

もちろん、映画という表現への慣れや、個人の器質的な要因がある場合もあるだろう。そう考えて、半ばそれを大げさな物言いだと思ってやり過ごした。

その後、新書を読めない、専門書の簡易版や、自己啓発書すら理解できない成人に出くわした。今となればそんな人は大勢いるとわかるが、当時はそんなことすらわからなかった。

もちろん、定型発達ではないと自覚する人、考えられる人もいるが、それはそれでまた別問題だと思う。

だから、人に接するたびに、「なんでできないのだろう?」「なんでわからないのだろう?」ということが増えてきた。

それまでは「当然これはできる」「当然これはわかる」と思っていたことの大部分が、多くの人にとって「当然」ではないことに気づき出した。

一方で、はっきりと明確に他の人と段違いの「頭の良さ」を感じたことはなかった。それは、今でもない

それでも、自分の中の「普通」が「異常」なのかもしれないという疑惑は、恐ろしいものだった

そして、この漠然とした指標である「頭の良さ」は、年齢を重ねるごとに多様化していく。それは遺伝的要因だけではなく、環境要因も大きいからだ。

結果、ある社会で「頭の良い」とされる人はどんどん頭が良くなり、「普通」からどんどん離れ、「異常」になっていく

そのことに気づいた時には、かなり「頭が良く」なり、「異常」になっていた

特に、読書と悩みは「頭の良さ」を先鋭化させる。本を読み、悩めば悩むほど、「普通」からは離れていく

紫式部を引き合いに出すのもどうかと思うが、平安の世に漢文をよくした「異常」の苦しみを思う。

このような苦しみは、その環境によるものである。自分が「普通」である社会にいれば、苦しみは少ない

「頭の良い」という指標でしっくり来なければ、「楽譜が読める」とか、「英語が話せる」などで考えても良い。

そのどちらも肯定的な評価をされがちだが、「楽譜が読めない」ことが「普通」である社会で生きづらくはないだろうか。

「英語が話せない」ことが「普通」である社会で生きづらくはないだろうか。

肯定的な評価をされることと、生きづらさは別問題である。

そんなこの世で、自分が属す社会において、自分が「異常」であることに気づいてしまった衝撃は想像できるだろうか。

ゲイの方であれば、男性を好きになるのは自然な感情であるのに、それを「異常」とする社会に属していると知ったときの衝撃はいかばかりか。

これはいろんな面で訪れる。齢を重ねれば重ねるほど多くなる。自分の「普通」が「異常」になる瞬間は多くなる。なぜなら、自分が個性化し、先鋭化されるからだ。

だから、この世界にある社会、例えば家族とか、学校とか、会社とか、地域とか、国とか、民族とか、いろんな社会の中で、自分が「普通」でいられる社会を見つけ出すことは難しくなっていく

だから、そんな、自分が「普通」でいられる場所を作るために、「家族」を育んでいくんじゃないだろうか。

しかし、僕はその過程をサボり続けた

そして未だに、自分の「普通」を、社会に押し付けてしまうことがある

そんなことわかるだろう、そんなことできるだろう、といったことを押し付けてしまう。もしくは、それができていないことを責めてしまう。

自分の「普通」を押し付けてしまう。それはその社会では「異常」であるかもしれないのに

これは非常に大きな問題で、自分が良かれと思っていることが「異常」だとされてしまう。それによって、その社会で生きづらくなってしまう

そんな自分の中の「普通」が通らないことに苛立ち、怒り、悲しみ、不安になる

「何で楽譜が読めないの?」「何で英語が話せないの?」「なんで同性を愛さないの?」そんな気持ちが苛立ち、怒り、悲しみ、不安になる。

さらには、「何で楽譜が読めるの?」「何で英語が話せるの?」「何で同性を愛すの?」という社会の「普通」からの反撃に打ちのめされる

とても抽象的かもしれないけれど、「頭の良い」ことは、こんな苦痛によく出くわすのである。(事実、楽譜が読めることも、英語を話せることも、同性を愛することを普通だと捉えることも、「頭の良い」のイメージと重なる部分がないだろうか)

こうして、僕はものすごく苦痛を感じている。「頭の良い」のグレーゾーンは、発達障害や知的障害のグレーゾーンと同じくらいに、苦痛の中を生きている

苦痛の解消には、社会に働きかけて「異常」を「普通」にしていくこともあるけれど、自分自身が「異常」であることを受け入れ、「普通」とうまくやっていくことが現実的である

しかし、そのなんと困難なことか。理屈ではわかっていても、苦しい。「普通」とどううまくやっていけばいいのか。

百歩譲って、その社会の「普通」に、自分の「異常」を押し付けないことで、その社会を平穏無事にすることはできる。

しかし、僕の心はどこにいくのか自分にとっての「普通」を捨てて、明らかに違和感と不快感を感じる自分にとっての「異常」に適合することのおぞましさよ

あとは、この世界のどこかにある自分が「普通」でいられる世界に身を置くしかないのか。もしくは、それを作っていくしかないのか。例えば、「家族」のように。

だが、その「家族」も多大なる努力の必要なことはよく知られている。

どうしようもなくなって、もはや自分の「異常」を諦め、「普通」を諦め、苦しみを享受するか、なんとかかんとかごまかしていくしかないと思うのも無理はない。

アディクションは、常にそばに控えている

いっそこの世界で生きることを諦めてしまおうかと思うこともある。

齢を重ねることで乗り越える手段は増えてきた。しかし、それ以上に生きにくさも増えていく。そのイタチごっこに、いつまで付き合い続けられるだろうか

自分の「異常」を嘆き、「普通」をうらやむ

今はただ、酒を飲んで全てを濁すしかない

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