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呼吸するように読み書きをする

前略 最近は深夜の時間を有意義に使えるようになったので、ずいぶんと本を読めている

そもそも心身の調子がある程度安定していないと、本は読めない。落ち着いて一冊の(または複数の)本に向き合える状態というのは、実は得難いものだ。

だから、ここ数日本を読めているというのは、それだけで本当に久しく、奇跡のような時間だと思っている。


不思議と、本を読めるようになると、こうして文章を書くこともできるようになる。

もちろん、本を読んで、その感想を書くというパターンもあるので、それで記事を書けているということもある。

しかし、実際に、本を読めていると、文章も軽やかに、それほど負担なく書き進められるのだ。

まるで、息を吸って、吐くように。文字を読んで、文字を書いている


抑うつ状態にあるときには、見事に読むことも書くこともできない。

人によっては、ひたすら書くことで心を整理できることもあるだろう。

僕自身がそうできるのは、もやもやしながらも、決定的な答え、それは怒りとか、悲しみとか、何かしらの到着地点が見えていることの方が多いと思う。

到着地点がある程度見えているときには、そこに行きつくまでの過程を辿ることで、心が整理され、同時に本当に訴えたいことを叫ぶことができるのだ。


だが、抑うつに吞み込まれているときには、書くというエネルギーも沸いてこず、もやもやしたものも、そのまま、もやもやしたまま、心の底をドロドロと渦巻いている

読むときに至っては、抑うつの深い深淵の渦中にあっては、ページを開くことはおろか、本を手に取ることもできない

そのまま、じっと、息をひそめるしかないのである。


だから、改めて繰り返すが、よく読み、よく書けているというのは、とても有難いことで、奇跡的なことなのである。

同時に、読むことと書くこととは、固く結びついているようにも思う。


僕の場合は、読むことよりも、書くことの方が負担が少ない。本を読めなくても、文章を書くことならできることもある。

ところが、それだとやっぱり行き詰まる。何となく何かのバランスがくずれていく。たぶん、それは自分の中から、おどろおどろしい何者かを形にしていくうちに、心が空っぽになってしまうというか、エネルギーが枯渇してしまうのだ。

そして、その心のエネルギーは、たぶん、いろんな方法で補充できるのだろうけれども、文章を書くための心のエネルギーの回復に最も効果的なのが、文章を読むこと、特に本を読むことなのだと思う。


文章と書いたが、Twitterやインターネット記事では、今一つこのエネルギーが貯まらない。あまり燃費が良くない

そのインプットの割にアウトプットできるのは、やっぱり、本だと思う。

特に、体感では紙の本だ。紙の本を読み終えたときに、充足感に包まれるとともに、心に確かに何かが宿って、エネルギーが充足している。

それを、今度は文章としてアウトプットするときのエネルギーにするのだ。


これは、その本の内容について書くということではない。これは、決して本の内容と、書く文章が一致しているわけではない。そこに重なる部分はあるだろうが、これは、エネルギーの話である。

不思議と、ある本を読んだときのエネルギ―が、何かしらの文章を書くときのエネルギ―として、普遍的に用いることが可能なのだ。


ここ数日は、それがまさに呼吸のように、本を読むことと、文章を書くこととが、一環したサイクルとして、心地よい運動になっている。

まるで、軽いジョギングをしたときのような(随分していないが)、心地よい運動として、本を読むことと、文章を書くことが連環している


この状態は、きっと、ずっと続くものではないことはうかがえる。

しかし、このようなひと時が、少しでも長く続き、そして何度も休止しながらも、また呼吸できるときがくる、そういったサイクルを作っていけたらいいな、と切に願っている。

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