見出し画像

【最終回】「こころの処方箋」を読む生活(pp.106-234)


何に怒っているのか。

怒りの理由を探ることは、とても興味深い営みである。

一次的には何か不愉快なことがあったからのように思えても、実は背後にもっと別の理由が、それも複雑にこんがらがっていたりする。

僕の場合、まずは空腹を疑う。事実、今スパゲティを食べたら、少し怒りが和らいだ気もするから、それも一因だろう。

そもそも直接の要因としては、職場への不満である。

職場への不満といっても、これもまた複雑で多層的である。

直接には、明日が休みのつもりが休みではなくなったことがある。しかし、それだけなら何とでもできる。まあまあ社会人をしてきているから、いろんな解決方法は持っている。

その他にあるのは、この二ヶ月(たった二ヶ月!)で明らかになったさまざまな問題に対する不満である。

働いていて何か不都合があったときに、それをどう捉えるかはその後にとても影響する。
大抵の問題は前代未聞というものではない。まあまあ社会人をしていれば、経験してきた問題である。

だから、まずは「まあ、あるよね、こういうこと」という段階がある。

ただ、それがきっかけになって、他の問題もあるのではないかと疑うようになってくる。経験則として、一つの問題には、他の問題も絡んでいるからだ。

そして、やや厳しい眼で見ているうちに、他の問題も案の定発見される。

そうなってくると、その職場で働くことがどうにも不安になってくる。そこで、逆の働きとして、それらの不満も実は勘違いであったり、容易に改善可能なのではないかという思いも生まれてくる。現代に生きていても、まだ職場を変えることへの面倒くささがある。変化を嫌う心性が、不満を否定しようと試みる。

しかし、結局は不満は徹底的に肯定される結果になる。不満が正当であることを裏付ける証拠がどんどん見つかり、わずかな希望もうちくだかれる。なぜなら、最初から勝負はついている。僕はとっくに、この仕事を辞めたがっているのだ。

だから、仕事を辞めることを正当化するために、怒っているのではないか。仕事を辞めたいという気持ちを尊重するために、怒っているのではないか。

出来事が先か、怒りが先か、は難しい議論である。でも、今の僕の怒りは、怒りが先な気がする。

急遽休日がなくなったことが、怒りに利用されたに過ぎない。よく考えれば、この事態は予期できたことである。やっぱりこうなったか、という思いがないでもない。

僕は、仕事を辞めるために、怒りを用いたかったのだ。そして、職場はまんまとその怒りの根拠となる出来事を提供し、まんまと僕は怒った。これで、僕は怒りというエネルギーを用いて、仕事を辞めることができる。

怒りのエネルギーが生まれた理由が、仕事を辞めるためであると想定したら、非常にしっくりしたので、すーっと怒りは和らいだ。

怒りが行動に利用されるという捉え方は、よく知られている。怒って相手をどなりつけるという行動を、相手をどなりつけたかったから怒ったと捉えるのである。

そして、このことは、決して「こころの処方箋」に書いてあったことではない。そのあたり、紛らわしくて申し訳ない。

この本を読みながらエッセイを綴ると言いながら、実はもう一周してしまった。それぞれの記述に感想がないわけではないのだけれど、通読した感じ、やっぱりこれはそう安易に感想を綴れるような代物ではなかった。

現代において「こころの処方箋」なんてタイトルをつけたら、それこそ具体的な「こころ」の問題への対処法が明確に書かれている本を想定してしまうけれど、全くそんなことはない。

このエッセイでは、実は明確な解答など書かれていないのだ。結論は不明瞭で、煙に巻いている。それでも、何か大事なものが垣間見えたような気もする。そのようなものだ。

「こころ」がこんな状態のときには、こうしたらいいですよ、なんてものは与えてくれない。

この本は、研究者にとってもバイブルの一つであることは間違いないだろう。バイブルとは、それが唯一の史料であるわけではないけれども、他の史料と関連しており、その中心にあるように思えるものである。そしてその内容はさまざまな解釈がなされ、多くの議論を呼ぶようなものである。まさにこの本は、バイブルにふさわしい。

この本の一節を題材に議論すれば、その果てしなさに議論を断念したくなるかもしれない。それだけ、暗示されていることがとんでもないことのように思える。

僕は始めは、河合隼雄の一般によく知られるエッセイとして踏み込んだつもりだったが、通読してみたら、非常に河合隼雄の中心にくるものが暗示されている読み物であった。

まずは、この本を通読する日々について綴るエッセイという形にして向き合ってみたけれども、この本はそう簡単に血肉になってくれるようなものではなく、その断片でも匂わせようとしようものなら、それを強烈な不快感が襲ってきてそれを拒否するような、恐ろしい魔書であった。

ということで、今度はそれぞれの題材に向き合い、自分なりに消化するための本を書いてみたいと思っている。もちろん、消化なんてそう簡単にはできないことは前提として、それを少しでも試みようとするための記述である。

閑話休題。

先日、流星群を見た。思いのほか多くの流星を見ながら、思った。僕は何を願うのだろうと。

流れ星が流れているうちに願い事を三回唱える。そんなことはまず不可能だが、これはさまざまな理由付けがされている。

例えば、それだけ願いは簡単には叶わないというもの。僕が採用しているのは、願い事はふとした流れ星の出現の際にもすぐに口に出てくるくらいに、いつも心にとめておくことで、実現につながるというものである。

そうしたときに、僕には自分の願い事が出てこなかった。

そして、ちょっと考えて、流れ星に願う願いとして浮かんだのが、「パートナーが欲しい」である。まさに、この流れ星を見ながらこの美しい瞬間を共有できるパートナーが欲しいと思った。

どうも、僕はパートナーを作るというスキルが非常に低い。これは、誰かと深く親密で、また密やかな関係を築くことと言い換えてもいい。

その背景には、これまでの失敗や傷ついた経験も大きいだろう。また、人と一定の距離感を保ったコミュニケーションが職業病として染みついてしまっているというのもあると思う。

とにかく、パートナーを作るというアビリティが非常に低いのだ。

実際、生きていくには、実はそれほど困らない。いろんな人と一定の距離感を保ちながらコミュニケーションを取っていく方が、トラブルにはなりにくいし、傷つくことも少ない。コスパは非常にいい。

でも、コスパは非常に良くないけれども、そこでしか得られないものがあるのが、親密な関係である。流れ星に何か願うのであれば、そんな関係を築ける人を作りたいということが浮かんだ。

これも結局は場数なのだろうけれども、なかなかそれも経験値の少ない自分にはおっくうである。

セフレを作ろうキャンペーンも、街コンで出会おうキャンペーンも、一瞬で過ぎ去った。無駄ではなかったけれども、今現在の何かにはつながっていない。

こんなチャレンジを何度繰り返せば良いのかと思うけれども、きっと世の人々には、こんな試行錯誤を繰り返して、親密な関係を築いていった人がたくさんいるのだろう。

それを思うと、仕方ないかと思うけれども、まあ、棚からぼた餅のような良縁を望んでしまうのもまた、人情だろう。

それでもまあ、そんな関係を諦めきってはいない現状を前向きに捉えて、少なくとも諦めきることのないよう、監視していく必要があるだろう。

サポートしていただければ嬉しいです!