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【連載】「こころの処方箋」を読む~13 マジメも休み休み言え

いわば「ユーモア」についての話である。ユーモアを持つには、ユーモアのある表現をするには、そこに「余裕」が必要である。


アメリカでは烈しく相手を攻撃する代りに、相手の言い分も十分に聞こうとする態度がある。それに対して、日本的マジメは、マジメの側が正しいと決まりきっていて、悪い方はただあやまるしかない。マジメな人は住んでいる世界を狭く限定して、そのなかでマジメにやっているので、相手の世界にまで心を開いて対話してゆく余裕がないのである。

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「マジメの側が正しいと決まりきっている」というのは、SNS全盛期の今では特に身に染みる言葉だろう。

自らが「マジメ」だと思っている側は他者の意見に耳を傾けず。また、情報を得る側も、「マジメ」だと思われる発言をやすやすと信じてしまう。

「日本的マジメ」は狭く、狭く洗練されていく。反省する機を失った「マジメ」は、鈍感や傲慢につながっていく。


これに対して、欧米人の場合は、自分がどんなに正しいと信じていても、相手の言い分を十分に聞かねばならないという態度がある。ぶつかりは烈しくなるが相手に対して心をひらくだけの余裕があり、余裕のなかからユーモアが生まれてくるのだ。

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おもしろいのは、「ぶつかりは烈しくなる」一方で、「ユーモアが生まれる」というところである。一見矛盾するようでいて、確かにつながっている。

ぶつかり合うというのは、余裕がなければできない。切羽詰まっている中では、選択肢さえ生まれない。

ユーモアもまた、余裕がなければ生まれない。ぶつかり合うことも、ユーモアにも、余裕という土台がある。


ではなぜ、日本人には欧米人のような余裕がないのだろうか。

この本が書かれたときと比べても、決して日本人に余裕があるようには思えない。ユーモアがあるようには思えない。


河合も「ユーモア」を用いて表現しているが、「マジメも休み休み言え」と言っているように、「休み」が大事なのかもしれない。

今もなお、理由もなく休むことのハードルが高いのが日本社会ではないだろうか。何かしら理由をつけなければ、積極的に「休む」ことができない。会社でも学校でも、なかなかに「休む」ことはむずかしい。

「休む」という当然必要なこと、それによって仕事も生活も社会もうまく循環していくようなものが、圧倒的に不足しているのではないか。

そんな当然すぎること、わかりきっていることさえ、未だに改善する気配がない。それは一つの心当たりとしてはある。


また、そもそも「ユーモア」の必要が認識されていないのではないのではないか。それは、「余裕」の大切さと言い換えてもいい。

なんとかかんとか工程を終えることができる、難しい日程をぎりぎり終える、最後の最後までねばる、そんなことが美化されているのではないか。

翻って、余裕を持って仕事を終える、日程に余裕がある、締切りまで余裕を持たせて終了にする、そういったことを良しとしない文化があるのではないか。

僕たちはもっと無理なく仕事をすれば良いのではないか。そして、必死の形相で仕事をするのではなく、歯を食いしばって仕事をするのではなく、ユーモアを働かせながら、余裕を持って仕事をし、生きるべきではないのか。


これはもちろん、プライベートに属するような日常にも言えることである。

必死になって子育てする必要があるのだろうか。ぎりぎりまで頑張って介護をする必要があるのだろうか。辛い思いを抱えながら闘病しなければならないのだろうか。

これだけ科学技術も福祉サービスも発展してきたのだから、もっと、楽に、安全に、安らかに、日常を送って良いのではないだろうか。それを達成しうるだけの工夫や改善ができるのではないだろうか。その達成を、文化的要因、心理的要因で阻んでいることはないだろうか。

子育ても介護も治療も、楽に、安全に、安らかに行うことが当然だという認識から出発しなければならない。それらが苦痛に満ちたものであることを受け入れるのではなく、当然それらは回避してしかるべきものであるとの認識から始めなければならない。

それはすなわち、生きることは苦しみではなく、安らぎであるというように、認識の転換の必要を指す。それを欧米が行っているかということはわからないが、少なくとも現代の日本において、あってもいい考えなような気はしている。


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