見出し画像

「計画型の人」と「現実型の人」

二つのタイプ

僕はかつて、準備に準備を重ねて、万全の体制でことに及ぶことに価値を置いていた。それは、計画すること自体が楽しいし、そこに至るまでの準備自体も楽しかったのだと思う。

手帳を買ってわくわくするタイプというか、未来のことを空想したり、こんなことしたらおもしろいだろうな、と考えるだけで楽しくなるタイプなんだと思う。


ところが、世の中にはこの計画や準備が苦手だったり、楽しくない人が多いことが、だんだんとわかるようになってきた。

これから起こることについてあらかじめシミュレーションしたり、事前に準備することや、そういうことを考えること自体が不快である人は、結構多いのだということに気づいた。


振り切っている人々

社会生活、特に仕事をしていると、どちらのタイプも存在することがわかってくる。

しっかり計画することが大事で、細かいところまであらかじめ決めておかないと気がすまないタイプ。

とにかく目の前のことに集中して、臨機応変に、柔軟に対応することを大事にしたいタイプ。


それぞれ、明らかにどちらかに振り切っているタイプの人も少なくない。そういう人間は、周囲からは、ちょっと面倒な人だと思われてしまうことも多い。

前者の場合、まだ今後どうなるかわからない先のことについて、細かく決めてしまわないと気がすまないなんて、面倒な人だな。

後者の場合、これからやろうとしていることに、もうちょっと計画をしていかないと、こちらも動きにくいし、準備もできないのに、困った人だな。

そんなふうに思われて、どちらにせよ、煙たがられたり、要注意人物にされてしまうこともあるだろう。


気質という要因

こういった違いは、どこからくるのだろうか。

一つには、気質的なものがあるんだと思う。気質的というのは、生まれ持ったもの、ということだ。

生まれ持った性質として、計画的に物事を進めることに心地よさを感じ、難なく先を見通して行動できる人。

生まれ持った性質として、臨機応変に物事を進めることに心地よさを感じ、難なく突然のトラブルにも落ち着いて対応できる人。

環境要因もあるにせよ、けっこう気質的な要素も多いんじゃないかと思っている。


環境との関わり

もちろん、環境要因もあるだろう。

環境も、マクロな環境としての「社会」と、ミクロな環境としての「コミュニティー」があるんじゃないかと思う。


「社会」というのは、例えばである。

例えば、日本はかなり計画的に行動することを心地よく感じる、計画的であることが社会的に評価される国だと思う。

電車のダイヤや学校の時間割を考えてみれば明らかである。

逆に、計画的ではないことは良しとされない。柔軟に交通機関を運用することや、学校の時間割の自由度が高いことは、評価されにくい。


「コミュニティー」というのは、例えば会社である。

会社によって、業種によって、計画性を重んじるか、その場その場での対処を重んじるかは違うだろう。

日本の会社は日本社会の影響を強く受けるので、自然と計画性を重んじることは多いだろう。

各会社がお互いに計画的に動くことによって、物事を進めて行くことを良しとする。


一方で、ある程度柔軟に対処するとか、現場の流れに応じて動きを変えていくということが求められることもある。

医療や福祉の現場で、あまりにもとの計画を重視して、対応が杓子定規になることは、サービスの質を下げることや、場合によっては命に係わることもあるだろう。


タイプが合わないことの生きづらさ

これらの「気質」「社会」「コミュニティー」が全て一致しているのであれば、仮に計画型か臨機応変型のどちらかに偏っていても齟齬がなく、生きやすい環境にあると思う。

せめて、「気質」と「コミュニティー」の性質が一致していたら、さしあたりは不自由はないと思う。

しかし、そうでない場合は、かなり苦痛を強いられるのではないか。

僕の場合も、計画型優位だったので、臨機応変型の上司や同僚に対していらだつことが多かった。

一方で、細かく指定されすぎて不自由な構造になっていることに対して、もうちょっと柔軟に運用できないかと考えることもあった。


学校の授業の場合

ただ、要はバランスの問題だという気もしている。

僕の場合は、気質としては計画型なのだけれど、授業となると、必ずしもそうでない方がうまくいくという側面にも気づくようになった。


学校の授業というのは、「学習指導案」とか「教案」と呼ばれる授業の流れを作成し、それに沿って授業をする、というのが基本である。

教育実習の場合は、まずこの計画を重視する。なるべく予定通りに授業をする。そして、その通りにならなかったことを踏まえて、改善・調整していくのである。

だから、教育実習は、授業の流れを予測する練習でもあり、限られた時間でどのように学習を進めるかということを意識しながら行うのである。


準備しないことの大切さ

それはそれで大事なプロセスなのだけれど、長年授業をしていくと、もう少し遊びを持たせるというか、あえて計画しないこと、準備しすぎないことの大切さも学んでいくのである。

もちろん、計画的に授業を行うのが基本である。日本の学校の授業は綿密に設定されたカリキュラムに従っている。このカリキュラムに100%合わせる必要はないのだが、最低限の定められた内容は扱う。

これは、授業の質を保証する上ではとても大事なことである。全てが自由になることで、質が低い授業も生まれ得る。


ただ、実際の授業では、その場の生徒の反応によって、柔軟に調整した方がいいことは多い。

前の時間に先生に叱られたとか、体育の授業で盛り上がって興奮気味だとか、体調が良くない生徒が多いとか、いろんな要素によって、授業の流れを調整する必要が出てくる。

そうしたときに、予定した授業の流れに捉われてしまうことが、調整を妨げてしまうことがある


特に、ちょっと気合いを入れた授業のとき、準備を丁寧にできた授業のとき、特別な教材を準備してきたときなんかは、場の空気がどうであっても、ついつい計画通りにやってしまいたくなるのである。

そんな誘惑に捉われないためにも、計画を重視しない、もしくは計画を立てすぎないというテクニックもまた必要になるのだ。


きっと他の社会生活でも同じなのだと思う。

時に応じて、「計画型」優位でいくこともあれば、「臨機応変」に対応することを優先することもある。

また、「計画型の人」も、「臨機応変に動きたい人」もいる中で、そのバランスを取っていくことが大事なのだろう。

どちらの気質や得手不得手があっても、それを個人や集団で調整していくことが必要なのだと思う。


前向きな未来を「計画」することの難しさ

最近では、この「臨機応変に動きたい人」も評価されるようになってきたように思う。

これは、一つには社会不安が高まっていることもあるだろう。一寸先が闇の中で、先を考えることで不安になってしまうことも多くなってくる。

本来「計画」というのは、必ずしもネガティブなものではない。リスクや危険を回避するということは、代わりにもっと明るい未来を想像するということでもある。


しかし、現代社会においては、ややもするとネガティブの波に飲まれてしまうから、とにかくポジティブに、前向きに考えることが推奨されつつあると思う。

そうしたときであっても、ポジティブで前向きな未来を「計画」することができればいいのだけれど、なかなかそれが難しいのではないか。


となると、人は刹那主義に落ち着くことがある。まずは、目の前のことに一生懸命になろう。目の前のことに集中しよう。そうしたメンタリティーが求められるようになってくる。

これは、抑うつ状態にある人への対応、もしくは防衛機制として考えられるのではないか。

「いま、ここ」に集中するというマインド・フルネスがブームであるように、気持ちが落ち込んでいるときには、有効な手段、技術なのだと思う。

先のことを考えると、暗くなってしまう。気分が落ち込んで、何もできなくなってしまう。だから、まずは目の前のことに対処しよう。そう考えるのは、気分が落ち込みやすい人には、有効なのだと思う。


現実を生きる

また、目の前のことに集中するというのは、現実を生きているということでもある。

計画というのは、現実ではない。あくまで仮想のもの、ヴァ―チャルなものである。従って、それ自体を扱う楽しさがある一方で、それがあくまで現実ではないこともまた、心に留めておかなくてはならない。

「いま、ここ」を大事にしたい人たちは、「現実型」とも言えるのだと思う。

仮想ではなく「現実」を大事にする。目の前の「現実」に対して誠実に対処していくことを重んじる


大勢で一つのことをするには「計画」が必要

おそらく、「現実を生きる」という姿勢は、人間にとって基本的な姿勢なのだと思う。

しかし、集団生活を営み、企業やグループとして何かを成し遂げようとするときには、「現実を生きる」というだけでは達成は難しい。

マインドとしては「目の前の現実を生きよう」と思っていることは良いことかもしれないけれども、それだけでは大勢の関わるような事業を進めることはできないのだ。


もし、1人で1枚の絵を完成させるということであれば、「現実を生きる」だけでも成り立つかもしれない。

しかし、50人で1つの大きな建築物を作るということであれば、その50人を分担するための「計画」が不可欠である。

50人のうちの誰かが「現実」だけを見ていたとして、全く「計画」を考えに入れてなければ、その分担は破綻してしまうかもしれない。

実際にはそういうこともままあるわけで、そういうときには、偶然に「計画」に合致したり、他の人が補ったりして(もしくはそこまで織り込み済みで計画されていて)、建築物は出来上がるのである。


「計画」重視と「現実」重視の間の溝

近年は、「現実」を大事にする流れがあるような気がする。それは、前述したような「いま、ここ」に集中するメンタルヘルスの流れや、社会の不安感によって刹那主義になっていること、そして先行きの見えづらい情勢などが影響しているのではないか。

そんな中で、従来の「計画」重視と、新しい「現実」重視の間に溝がある場合があるのだと思う。

本来これらはバランスを取っていくものだし、実態はグラデーションを持ったものだろう。

しかし、極端にどちらかに偏重している場合や、そのバランスがうまくいっていないこともあるのだと思う。

そうすると、僕のように、上司の計画性のなさにイライラしたり、分担が細かすぎて柔軟に対応できないことにいらだったりすることが出てきてしまう。


管理職に求められること

これは個人の問題ではなく、集団の問題である。

個人の中での「計画」と「現実」のバランスは、その人が心地よいものにすればいい。

ただ、集団の場合は、このバランスを調整する必要がある。集団の目標や目的、関係者の気質や特性に応じて、調整しなければならない。

それを行うのが管理職であり、マネージメントである。

だから、管理職が集団をマネージメントする上で、「計画」と「現実」のバランスを取ることが重要なのだと思う。


個人にできること

ただ、管理職がそのようなバランスを取ることが難しいこともある。管理職は、万能ではなく、力不足であることも大いにある。

だから、個人でも、この世界には「計画型の人」と「現実型の人」がいると仮定して、自分とは違った気質を持った人がいることを思い浮かべることで、楽になることや、整理できることがあるんじゃないかと思う。


少なくとも僕は、これまでにしてきた仕事の中で、両極端の上司に出会い、それぞれについて退職した主な理由がこれである。

あまりにも「現実型」すぎて、計画や分担ができず、組織運営に支障をきたしていたケース。

あまりにも「計画型」すぎて、一方的に細かい指示を押し付けてきて、息苦しかったケース。

それぞれ、対話の余地があれば良かったのだが、それは難しかった。


ただ、このような「計画型」と「現実型」というモデルで整理することで、その人物や、事業を見直すフレームワークとして機能できるんじゃないかと思ったのだ。

もしかしたら、そうすることで、人物への対処を変えたり、事業の在り方を改善できるんじゃないかと思っているのである。


サポートしていただければ嬉しいです!