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「表現」に向き合ったその続き

3週間前に、表現って何だろう、と書いた。
辞書的な言葉の定義ではなく、自分にとっての表現とは何かを問うものとして。

表現することによって誰かに何かを伝える、伝わる、共有する、感じ合う、気づく。そんな営みを期待してこその、表現ではないか。
ただ、そうした場合、他者の存在が必要になり、他者の反応は必ずしもこちらの望み通りになるとは限らないし、望み通りの反応が得られなかったらその表現は無意味なのかというと、それもまた違う。

なんてことを書きながらぐるぐる考えていたから、僕のことをよく知ってくれている友人とお茶したときも、そんなことを話した。表現が目的ではなく、表現を手段としてその先の何かをつかもうとしているんだ、とか伝えた気がする。
その時、違和感みたいな何かを感じてくれたらしい。どう言われたか正確なフレーズは覚えてないけれど、「そこじゃないと思う」と伝えてくれた。「そこまでで、もうすでに分かってるんじゃない?」って。

スイッチが押された瞬間だった。
言ってくれた友人も、言われた僕も、意図せず生まれたその瞬間にはまだおぼろげだった何かを少しでも明確にしたくて、会話を続けた。

そして気づいたのが、表現した先の何かではなく、表現する前にあるもの、表現に至るまでのプロセスを大事にしている感覚。時にはなかなか言葉にできなくてもどかしいそのプロセスに、価値があると感じている。
僕自身に対してもそうだし、誰かのそのプロセスを一緒に歩むことができたら、それはとっても喜ばしいことだ。

今朝の明け方の夢でもそんなことを語っていて、とても印象的だったから急いで書き留めた。
偶然出会ったらしい仲間と、なぜかラジオ番組で語っている僕。その人の心の中にあるものを表現するお手伝いが、僕の仕事。
上でも下でもない、横の関係で、そこに寄り添う。喋らない時間があってもいい。無言でも確実にそこにいる。じっとする時間があるからこそ生まれるものがあるから、焦らない。うまく表現できなかったら泣きたくなるくらい、場合によってはしんどい作業になるかもしれない。僕が言葉にしてあげることはできなくて、言葉にするのは本人。何が分かるか、何に気づくか、何を感じるか、僕にはわからない。
世の中には、天からのお告げのようなものが、ひらめきとして突然やって来る人もいる。だけど、多くの人にはそんなものはない。なくていい。頭の中、心の中にあるものに、少しずつ向き合うその積み重ねを大切にする。
そのために、手をつないでほしかったら手をつなぐ。抱きしめてほしかったら抱きしめる。隣にいても、後ろにいてもいい。
ただ、僕は壁のようなもので、受け止めることは出来ても、こちらから動いて目の前に現れることはできない。突き破っても、乗り越えても、横や下からくぐり抜けててもいいから、その感触を確かめにきてほしい。

夢は、自分の中にいる「もう一人の自分」からのメッセージでもあると言われている。
他人事みたいに書き留めたけど、誰かに対して僕ができることであり、僕が自分自身と向き合うときのスタンスを教えてくれた。

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