⑶感情的知性の三つの水準と真正性へ

山本哲士氏へのインタビュー3:「心的現象論・本論」に関して

山本 emotional intelligenceの水準は、以下のようになります。
1°)感情のままの知性表現で、感情がそのまま言述されます。
これは、「対象」が正鵠に把握されていないことから派生し、rationalityは自己正当化のみの論理脈絡になっていきます。「誤認」知性の累積、と私は呼びますが、心的現象論でいうところの、病的なもの、異常なものに半歩踏みこんでいるのですが、関係づけが恣意的ですから了解水準は、その関係性に対して「親密性」と「自己性selfhood」とを破壊するように、常人の日常態にそれが配置されます。誤認も真実ですから、自分の言っている感情表現は間違いはない、正しいんだという自己撞着ですね。ただの主観ではありません。当人に自覚されていない関係配置があります。自分が信じていること及び価値の上に立っているのですが、その真実が社会環境的に間違っていることで、省察とは逆に固執される状態におきます。
2°)次の第二は、感情と知性との相反性が関係機能している水準で、知性論理で昇華できないものが感情表現され、知性の合理性を補填します。さらに、その感情も不十分であるという自覚が持たれています。これは、まだ感情表出の根拠を対象化/客観化できていない水準で、関係づけはなされていますが、了解水準が不安ないし不確定のままにあり、自己性における自己知識の不十分さを感知はしている次元です。常識的通常人は、この次元で自己抑制していますのも、外在性の基準とそれを受け止めることをどこかで持ちえて、その力とのバランスを考慮しているからです。失礼ですが、皆さんの次元です。派生的に、既存の規範性はポジティブにもネガティブにも感情・情感の方から規制作用されます。
3°)第三は、簡単に言ってしまうと感情を客観化しえている水準です。なぜ自らの感情が蠢いているのかをなんらかの了解水準へと上げて省察できますが、他者との関係づけで情感的なものを合理性へと統括はしません。他者との関係づけを客観化できているのですが、親密性へと配備できないゆえ、感情は残滓しています。自己性における自己知識が、感情を通して形成されるのです。
簡潔化して述べていますが、意識的認識以前に、いや認識より根源的にこのemo-tinal intelligenceは作用しています。
この三つの水準で、いちばん力を持つのが第一なのです。他者性が見えていませんから、傲慢に振る舞い、かつ、第二や第三の不可避の恣意性領域を攻撃できます。自分だけが正しいからです。主観表現のようにみなされますが、もっと構造的に根深いものです。ですから、己の存在をこのように指摘されても、感情知性的にそれを罵倒で否定し返して、自分の正しさをphisyologicalに感情表現するだけになります。自己疎外が屈折して、自己疎外を真正的な態度だとしています。
もう、言わなくてもわかりますね。
ーー全集の編者は、第一の水準そのものですね。山本さんは、第三の水準ですね。そこは、交通不可能なのでしょうか?
山本 不可能ですね。親密性の機能が、感情資本主義に絡みとられていますから、感情システムと知的システムとの断裂として構造化されています。個人主体の主観問題ではありません。だって、簡単なことでしょ。「間違った、訂正する、著者本人の決定した「心的現象論・本論」へ変える」、これだけのことです。しかし、間違いの自己正当化しか念頭にありませんから(当人は「本論」を抜いたことは間違ったと思っていませんから)、どんどん上乗せして、事実でないことをあたかも事実であるとして捏造することにしかなりません。「長編評論だ」などと自分勝手なことを平然と公開主張します。究極は自己破綻しますけど。
過ちを認めるそこは、もうemotinal intelligenceの次元のことではなく、誤認を自己技術で解くという知性次元ですから、「理解する」ことの暴力性(自分の価値や欲望を捨てる)を受け入れねばなりません。自己感情がそれを容認しないと思います。でなければ、こんな愚行はなされなかったし、とっくに解消できていますし、S社も編者を統御できたと思います。S社社長は、この編者は女みたいに女々しく、人の言うことを聞き入れない、手がつけられない、自己破綻するのは自分の責任だととはっきり言っていました。差別的表現ですが、言いたいことはとんでもない奴だという1点でしょ。しかしもう、氏は私を守っていませんから、私も守りません、5ヶ月私は黙っていましたが、事実を吐露します、はっきり言います。カオスですね。また、私には、この編者は人格として存在していませんから、どうしようと関係ない、となります。名前すら存在しません。第三の立場からそうなります。かつての大御所の学者たちは批判されてもほとんど何も言っていないですね、emotinal intelligenceを表明するのを嫌ったからです。私は小人ですので、このようなインタビューへお答えしています。自己疎外にも外圧にも屈するのは嫌ですから。それはまた、S社をこの編者から解き放てるようにしてあげようという、親密性を社長へ対してはまだ持っているからです。だって、分かっていますからね氏は。ただどうにもできないというだらしなさは、蓋をして誤魔化しで、なうなうで通り過ぎようとしても、絶対にそうはなりませんよという、事実の冷酷さ(残虐さとさえ言えますが)を私は知ってますので、それは示します。ですから、こうして述べています。ご当人は、急性高血圧症か何かになられたそうですが、原因は私ではない、編者です。私はきっかけを開放しただけです。著者本人が無視されている情況をほってはおけないです。
ーーemotinalなインテリジェンスの作用において、それは自己へと関わることで他者からの力ではない、ということですか?どういうことですか?何か、ピンとこない。
山本 emotinalなものと知的なもの、それは人間的なものと非人間的なもの、物質的なものと非物質的なもの、行為のemotinalとrationalな構成における相互アクションには、規範性normaltyと真正性authenticityの問題が入り込むからです。
S社は、最初の私のアクションに、「いわれなき」いちゃもんづけだ、法的に対処することだが、そうしないで淡々と全集制作に入る、と自社のHPで、公開しましたね。それは「事実」の根源を知らなかったからですが、第三者として全集にいちゃもんづけをしたという理解は、他の方たちも同調していました。わたしが当事者の一人、「本論」発行出版社の経営者=責任者であることも、知らなかったこともあるかと思います。私信を社長へ出した時、ある方のHPをどう思うか、と彼が聞いてきたので、やむなく見ましたが、偽書を「実在する」、自分は持っていると前提にして、私を「思想家として終わりだ」などと勇ましく冷静に知ったかぶりで吠えてておられましたが、私が第三者として言動していると思っていたからでしょう。自分で本を出せばいいと、もうやってることも知らないで。「そういう見解もあるんじゃないですか」どうでもいいと、社長へ返信しました。また、弁護団とか法的処置とか、私への脅しとして機能すると思ったんでしょうが、そこが軽薄というか粗末です、私は喜んで受けて立ちます、一点の誤りもありませんから。それより、あなたの会社がなんて品がないんだと読者たちから呆れられるだけで、自分の損害になるだけですよ、と指摘しました。2月の話し合いの場では、後で外しますと言っていましたが、外されたようですが、私はどうでもいいですよ、私にはどちらも同じですと。ことの事態は、そんなところにないからです。
真実をめぐる闘争=ストラッグルは、どちらにも転びます、ですから、シンプルで間違いない事実を貫くしかないんですよ。いかに害を被ろうとも、そこをごまかしてはいけない。
ーー私どものアクションへの批判になっていました。時代錯誤だ、左翼だみたいな決めつけでしたね。書かれたものだけで、他者の存在を否定する、それこそ典型的な旧態以前の左翼的というかマルクス主義的な仕方で、山本さんがいうように「相手を否定すれば、それは客観性を偽装し、自分が正しいとされる」効果の長々しい言述でしたが・・・・
山本 いやその理論効果批判は、ブルデューのロジックで、私は踏襲しているだけです。私は思想家でもありませんので、思想家として生まれてもいませんから思想家として終わることも死ぬこともありませんし、この件で間違ったことはまったくしていません。また、皆さんのラディカルな署名活動には、私は賛同しましたが、S社社長が戦々恐々とされていたので、ネットなんてほとんど見られてませんよ、過剰反応されないことですよと言いましたが、相当に効果したようでしたね。吉本さんの取り巻きは、私の学生時代からですが、ほんとにいまだに質が悪いな、と相変わらずさを感じただけです。吉本さんが亡くなられたとき、三上治さんが追悼集会を開かれ、高橋順一氏と一緒にパネラーとして参加させられたのですが、他の発言者たちが揃って晩年の吉本は堕落した、がっかりしているみたいなことを言うんで、よせやい、あんたたち三つの本質論、何にも読み込んでないだろう、そこから考えろ、そこで提起された物事を抱え込め、とアジってしまいました。ここ必然です、三つの本質論を了解していないと、私の言っていることは理解できない。ですが、偽物を買わされた犠牲者ですから、ちゃんと本物を差し上げますよと、ブログ対応させてもらいましたが。
ここには、何が「真正か」という判断をめぐる問題が構成されています。
ーー真実、真理とは違うことですか?
山本 真実・真理は客観性をめぐる認識知性のマターです、しかしエモーショナルなものは「真正性authenticity」が関与してくるのです。先の第一の立場は、自分が真正だ、という態度表明なのです。だから、真実だ、とはならないですから、他者の非真正性を主張します。ここで、おもしろい現象は、この態度は、制度的権威の保証を背後に持っているんですよ。出版界と大学界との癒着関係です。二つの系が、今回には絡んでいますね。第一の系は、俺は東大総長だった人の編集をやってるんだ、お前みたいな田舎大学の二流大学教師の次元じゃないんだ、というその人の真正性の制度規範依存の隠れた主張です。第二は、俺は中堅どこの出版社にいたんだ、お前みたいなどこの馬の骨とも知らぬ小出版社じゃないんだ、と。この、第二は、屈折しているんですが、大手出版には入れない、中堅どこの有名出版社だ、という大手からの差別・コンプレックスを、こちら小出版社に投影しています。これ黒人が、その差別を黄色人種へ向けるのと同じ構造です。無意識にやってますから、傲慢不遜な態度に出れる根拠です。その中堅どこなんて一度つぶれた出版社でしょ。自覚していようがいまいが、この二つは、しかし、吉本隆明という「在野」とされた偉大なる思想家に対して、二重に屈折しますね。吉本さんは、大学人ではないし、また、大手出版に依拠した人でもない。うちのような新進のどうなるかもわからない小出版社に自分の大著を提供されたんですから。
ここを、この編者は、救出しようとしてるつもりだと思います。不遜にも、吉本権威づけをしてやってるんだと。しかし、S社という中堅どころです。大手出版社ではないが、小出版社ではないのだから正当性の根拠を持っていると錯認が発動されるんですが、編集者が書き手に対して言うような態度や言述ではありませんね。S社に対しても馬鹿にしているから、自分勝手なことできるんですよ。制度規範が、真正性だと領有していることから、きています。
真正性も、先のemotinal intelligenceと関係するんですが、第一の水準は自己疎外が基盤にあります、自分が自分ではないという、編集作業って自分出せない、だからそれを反転させて俺の仕方でやると、勘違いへ入ります。第二は、自分の良き状態を配置してそこと外在環境との間でハレーションが起きないように調整、一致させる真正的態度です。第三は外在力を認識しながら、良き状態のエモーショナル次元を穏やかにしていこうという真正性です。真正性もいくつかの様態をなしていくのですが、個人化が進行して個人へ浸透している消費文化現象です。
真正性と規範性が揺らいでいる感情資本主義の時代ですから、その典型が出版の知性の領域に出現してきた今回のケースですね。しかも、吉本思想という世界最高峰の思想の次元で。しかし、この編集ワークは、何にも分かっていないですよ、だから「長編評論だ」なんて無根拠の馬鹿なこと言えるし、「本論」抹殺できるんです。
私は、東京大学が世界で40位だというそんな低次元での研究活動をしていない、ジュネーブでの自分が立ち上げた学術財団で、世界の一流の学者たちと協働してきました。この日本の制度規範性を超えたアクションであること。さらにそれを、出版機能に乗せていくとき、もういちいち既存の出版社に説明したりするのがほんとに嫌になって、新たに作った出版局です。自由に作りたいものを作っています。まだまだ資金不足で、十分ではありませんが、着実に進めています。200万円で回転資金になります。誰もそれで食べられませんから、逆に純粋に質的なもの、したいことをできます。賃労働的なファクターが入ってくると、資本は堕落します。人を食べさせようなどとすると、知的生産では堕落が余儀なくされますのも、売らねばならぬ、利益を上げねばならぬとなるからです。売れねばならないとなったとき、全てが歪みます。そこは、別マターでサポートするしかないのです。全集はどう計算しても損してませんが、その売れねばならないと普及せねばならないとがミックスされて、この第30巻で歪みましたね。自分で瓦解させているのに、他人のせいにしていくのがもうその根拠ですが、この異様な編者と切り離されたなら、普通のまっとうな出版社に戻れるんではないですか。
研究生産・文化生産の局面では、印刷所の機能がとても直接性で重要になります。
ーーここまでで、一つまとめておきたいと思います。それは、2008年既刊本「本論」と全集第30巻との関係ですが、明らかに、全集は「本論」概念世界を抹殺した、しかもたった一人の編者の独断によって。そしてその出版社は、その刊行作業となる編集マターで何がなされたかを正鵠には知っていなかった、さらには我執する編者を編集マターとして統御できていない、ということです。「あとがき」、「あとがきにかえて」の吉本インタビューは、山本さんたちがなしたマターであり、それを全集版は無断借用した、いやこの編者が独断盗用したということです。何らの確認も、打診も、文化科学高等研究院出版局にはなされなかっただけでなく、発行所であるS社に対してもなされなかったということですね。
この出来事を、山本さんは無視されたから怒った、とされているような解釈は間違いで、吉本本人の決定を無視した、ということです。
山本 私は無視されようがされまいが、どうでもいいことです。
補足します。私は、この2008年本論の出版にあたって、何らの報酬も受けとっていません。責任者として、プロデューシングを最後までまっとうした。それは、2022年までかかった。つまり、必然の、逃れ難いagent=代行者です。責任があります。つまり、商品関与しているのではなく、文化資本関与しています。
晶文社には、データ提供から、すべて貢献しますよと社長に申し上げていた。しかし、徐々に何も対応がなくなった。編者の独走が始まったということでしょう。しかも、この編者は、物質マターで、報酬を受け取っている。自分の生活に関わっています。その利益確保は、不可避になります。なら、謙虚になればいいのに逆に高邁になっている。物質的マターと非物質的マターとの相互性において、物質性を優先して、非物質的な内容において「本論」概念を無視し、本質世界を評論だと歪めています。つまり編集マターをしていません。吉本無視の自己マターをしているだけです。だから、勝手に「本論」概念を消去し、内容に勝手にオリジナルにない番号をふっている。さらに無断で、私たちのまとめたあとがき/あとがきにかえて、とまえがき(パンフ)と本自体の構成を、使っている。これは、シニフィエに現れている事実です。解説も、間違っています。2007年版の書を、吉本本人も私の出版社も刊行などしていませんし、認めていません。当事者が言っているのに、生前の本人が決めたことを、著者本人の死後、当事者でもなかったのに、自分都合の勝手な編集及び解題をした。ここも勘違いしないでください、編集ワークの仕方、編者様態のことであって、個人主体のことではない。この区別がつかないのが大卒知性です。
ーーしかも、処理されたことを、不守備であるかのように、蒸し返しています。私もこの偽書を見せていただきましたが、組版がそのまま印刷されていて、中央ラインも揃えられていないし、デザインは粗野、ずさんだし、製本はされていますが、本じゃないとすぐわかります。青版と、とりあえず称しておきましょう。
山本 ええ、印刷屋なら、真っ当な編集者ならすぐ気づきます。今おつきあいしている印刷所に見せたなら、一眼で、組版のまんまだ、ひどい、とわかりましたよ。その判別もつかないのは、編集者としてど素人です。「なんだ、これは」とS社を通して私どもへ確認すれば済んだことです。蒸し返されてしまったこの偽書について、次に述べていきましょう。この印刷所も、迷惑を被っているんですから。名をとりあえず伏せてやむなく語りましたが、暴露したようですね・・・
ーーええ、山本さんの名を伏せた記号配慮を真実隠しだみたいに、暴露していますが、世の中の配慮さえわからない人で、あら探しが編集能力だと思っている人だと出ていますね。本の裏を見れば誰だってわかることを偉そうにです。粗探し発見が編集だと錯誤している人ですね。これ全集編者による印刷所への営業妨害ですよ。山本さんによるこの間のやむなき事実の提示からわかることですが、青版=偽書を一人の人が独断でやってしまっている、全集編者と同じ構図です。
山本 彼は死亡していますので、その死に方へ公には何も言いませんけど、とても心苦しいことですが、そのとき、烈火のごとく私が怒ったのも事実です。あまりにひどい仕方ですから。いいわけでなく、蒸し返されたので事実として問題の根拠を述べざるを得なくなりました。もう2007年の秋で決着づけられていたことなのに、蒸し返されたことへの憤りはあります。
この出来事はエモーショナルなもので、というのもそこには親密性への破壊がなされているからです。彼は、私を慕っていた人であり、吉本さんを神のように思っていた大学闘争時代の同級生です。その彼が、独り先走りしてしまったのが、青版=偽書です。もう、経緯はブログでもYOUTUBEでも述べている通りです。皆さんから、全集編者がさらに無神経なことをしていると報告受けましたので、補足しておきます。実在するからといって存在条件は満たされていないことが、出版人にもわからないということは何で起きているのかです。S社社長は、私の説明でわかられましたよ。仲介人の読書人社長、明石氏も、仮象が溶けたとはっきりわかられました。蓋し、氏は中立の立場に立つ点を強調されていますが、何が間違っているかは、S社社長も読書人社長も、はっきりとわかられています。
聞くに、泥棒されたのはされた奴が悪い、という盗人猛々しいことを、全集編者はされているようですね。
ーー山本さんが、ちゃんと始末していないからだと、山本バッシングです。
山本 始末処理はとうにされてます。済んでいますよ。勝手に蒸し返して、問題にしているのは、編者が自分の間違い、ミスを正当化するためだけにしているからです。ちょっとどころか、異常さを超えて、かなり病的様態ですね。心的現象論を読めば自己解析できると思いますが、内容理解できないんでしょうね。立派な偉い方なんでしょう。
ーー山本さんへの嫉妬があるとしか思えない言動ですが、出版人として基本がなってないですね。こんな人が、吉本全集をやっているのかと。早くやめろと、私どもは主張しています。読者として許容し難い。
ーーいや、これは企業サイドから見ますと、完全な名誉毀損、かつその印刷所への営業妨害です。この人、どの立場から言っているのか、もし晶文社としてやっているなら、S社もこの人を背反行為として訴求できますよ。
ーー僕たちの感覚だと、向こうの方の人ですね。ネットでうじゃうじゃいる。最後まで見ないで、切っちゃいます。そして、もう全集なんて信用しない。この人をきっかけにして、吉本を勉強する気もなくなりましたね。
山本 皆さんは、すぐその人への問題として主体化=従体化へ還元されますが、私は、最初から、何でこんな事態が平然と起きてしまうのか、その構造関係に大きな問題を感じています。ついつい、私も主体化という従体化現象へ関わってしまいますが、個人化の度合いが強いためで、しかし個人というより、「異常であること」「病的であること」が大手をふるって、著者無視の全集を編集しているという事態そのものへの認識です。つまり、自分へ降りかかってきた外在諸関係の本質的な問題があるということです。しかも、そこには、存在は実在ではないという根源問題がある。私の偽書では起きないですね、しかし、吉本さんの偽書だと起きる問題です。私の偽書=黄版なら、何だこれは本人が出したんじゃないんだで済まされますが、吉本さんの本への読者の執着はすごいですね。それを、考えさせられました。でも、どう見ても十数部ですよ、数十部にはいっていないと思いますのも、その印刷所はさすがストップをかけたと思いますから。ですから、Oは亡くなったと思います。そこに対して、私は真実をほじくり返すのはやめています。親密性の崩壊でとどめています。
また、死者が出るんではないかと、むしろ案じていますが、間違いは容認はしません。
本質次元から、さらに見ていきます。つまらぬ事態をつまらぬ次元で述べていても意味ないですから、少しでも意味ある水準へと引き出します。真正性は、真正でない者を考えたサルトルの実存主義から主にきていますので、その実存主体次元から切り離して、「自己」のあり方の真正性の位置を探っていきます。サルトルはジャズは真正的だと言ったのに対して、アドルノはジャズは真正的ではない、と言ったその対立に潜んでいる事態です。全集第30巻は、青版偽書と同様の作り方からなされている代物で、「本論」から見れば真正な書ではないということになります。
ーーそこは私の方から、まず言わせてください。ようやくわかってきましたので。他の読者たちも、まだエモーショナルな次元でしか、感知していないと思いますし、その認知は既存の範疇から出切れていないと思うんです。私自身がそうでしたから。つまり、価値や意味を抜いた抽象次元で意識的自己を稼働させているだけなので、そこをどう脱するかだとわかってきました。その上で、真正性の視点から説明をお願いします。真実と真正との関係が、まだよくわからないので説明してください。
(つづく)