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フリーインプロの抱える問題点⑤ 感性と理性 真似する事と壊す事

技術を壊したり理性を外すものや感覚として語られるフリーインプロの話です。

感覚と理性

この辺りでよく語られるのが感覚派と理性派に分かれてどうこうと言ったどこかのコンサルが他人の適格を見るようなやつに似ているのを見たりはしますが、そもそもの話として、自称感覚派に理性が存在しない訳ないですし、自称理性派にも感覚が存在しないわけがないわけです。

そしてそれらは哲学の認識論的な話の新書でも適当に1冊おさえればそんな二つにわれるほど簡単じゃないのはすぐにわかる話であるわけですが、どうなんでしょうね。

理性として扱われやすい物にですが、現場を特徴づけすぎるもの、例えばリズムやパルスの連続を嫌う人は結構多くて、リズムを使うと感覚的になれないのような話も聞いた事がありましたが、個人的にそれ聞いて思ったのはそもそも人間がリズムを感じるのも感覚じゃないかといった話です。

自分的にはどちらもありではないかなと思ってはいますが、中々難しい話だなと思っております。
どちらへカテゴライズさせるかという話なんでやはり政治の話なんだと思います。

また、この辺りはコミュニケーションの仕方なのかなとは思いますが、わりかし個人主義的な国柄の出身の方だとその人がやりたいならやればいいが徹底されてる感があって何しようがあまり何も言われないし、興味持たれてコミュニケーションが成立することが多いです。

フリーをやっていて~しては駄目、~したらいけないのような干渉のされ方をされがちなのは、そもそも禁止がなにもないはずなのにそういう禁止する権力が発生するのも前述の政治の話につながるのではないかとは思います。
いわゆる前述③哲学専門用語編で出したアノミーっぽくはあります。

感覚的になる為に様々な人達の言うルールをなくしたらその人達の言う理性が排除されながらもその人達のルールと理が発生していくという謎の状況はまさに政治ですね。

模倣について

クラシック音楽なんかの日本への輸入の話は別でやっておりますが、やはりひたすら音符をなぞる事が音楽の訓練として必要なのは当然で、おそらく他のジャンルでも模倣することは訓練として最上のものに扱われたりするのではないでしょうか。

インド音楽なんかはひたすらなぞりになぞり続けなんとなく飽きたら大枠は沿ったまま変えてみてもいいよ、みたいなのをやったりとかはしてますね。

音楽も舞踊も絵画もなんでもそうですが真似するというのはギリシャでも創作の本質はミメーシス(模倣すること)と言ったりする事があるレベルで模倣というのは非常に芸術にとっては重要な事になる訳です。

ルネサンスしかり対象を模倣することが素晴らしかった時代から、時代が進み個人的な何かを発露するものへ価値が置かれるようになった歴史のなかでフリーインプロがあると考えますと、模倣と個人間の行き来的な話がどうしても置き去りになりがちなきがしますね。

個性だから模倣してはいけない、のような~してはいけない論もありましたが、そもそもフリーなのにな、、と思ったりしてしまったり等、、
とはいえ、今まで誰もやった事のないような原初の創造性もフリーなので可能であれば発現でき見せれる訳です。

この辺りの関係性を考えていくと発展があるのではないでしょうか。


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