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「男性の体への鈍感さ」の弊害〜わが家の出産準備の話とともに〜

わが家がこのひと月ほどの出産準備で行き当たった葛藤の大きな要因がまさにこの「男性の身体に対するケアの関心の薄さ」だった。

さらに考えていくと、産後ケアの広まらなさや、夫婦のコミュニケーションの齟齬、子育ての行き違いなどなどなど、私が社会的に解決すべきと感じる問題の多くにも関わっていると思う。

この記事(生活クラブの月刊誌『生活と自治』2月号 「男性学で読み解くジェンダーあれこれ」)では、尿モレの不快感を例にして、男性トイレや男性同士でのからかいとも関連させながら、男性は自分の身体をケアする意識が薄いことを指摘し、大切にしようと書いている。

このケア意識の薄さ、男性が不快感をもったまま生活するだけでなく、他者の身体的不快にも鈍感であることを強制し、さらには他者からのケアに対して無きものとする作用があるから、本当に厄介で、もはや有害だと私には思える。

身体に鈍感で生きられるというのは、毎月の生理や長期間に渡る妊娠、大激変の出産という身体的な制限に人生を左右される女性からすると、うらやましい「強さ」であり「特権」であると思う。
女性は身体をケアしたくてしているわけではなく、敏感にならなければ活動できない時があり、さらに自分の身体的変化の延長として子どもという他者が存在してくる。

自分の身体に対する鈍感さは、そういうことにも無頓着だということになる。 

わが家の話

これまでの2回の出産の際も、普段の生活でも、私のパートナーは一生懸命に私と子どものことを思い、家事と育児をしようとしてきたし、実際かなりやっている。

でも、私からすると何か物足りなさがあった。
寄り添ってくれていない。
敬意や思いやりに欠ける。
独りよがりな感じがする。
本当に共有したいことがしきれていない。
…というようなことを感じている部分があった。

私も完璧にやれるわけじゃないのに…
こんなにやってくれるのにまだ求めるの?
大変な仕事をしていてその邪魔をしたくはないし、
役割分担として私が責任者でやればいいし、
私が丁寧にやりたいだけだから
…と自分を納得させてきたと思う。

ただ、今回の出産を迎えるにあたって、
パートナーがジェンダーギャップに関心をもち始めたこと
半年間の仕事セーブ期間を設けたこと
上の子どもたちと同居家族の存在
過去2回の産後の体験
私自身の状態
と、いったことが重なって、今度こそ出産と産後のフォローを任せたいという思いが強くなった。

その時に、今まで置いておけた小さなズレが大きな障壁となって2人の間にあることに向き合わずには進めなくなった、というわけ。

「ケアをしてほしい」ということを言いたいんだけど、パートナーは「何をすればケアなの?」という状態。
環境的な準備、健診への同行、情報の把握と調整、身体のマッサージ、子どもの対応…
やるつもりはあるし、実際やってるけど、どこか作業的仕事的で、ケアではない感じ。やればやるほど大変そうで、やってもらってるはずの私に感謝と不満が同時に募るという苦しさ。

そして、慣れないがんばりをしていることに加えて、私が色んなケアから手を引いたこともあり、パートナー自身の心身のケアが普段以上におろそかになるというか、負担が不調という形で現れるようになった。

それでようやくパートナー自身が、自分は心身が強くないこと(その自覚的はあった)、それを自分の工夫や能力だけで対処できてきたわけではなく、フォローやケアに私や他の人の力を借りていたことに思い至ったのが、今週の話。

がんばってるのに、私にダメ出しされるわ泣かれるわ。どうしていいかわからず体調が崩れかけていたところに、受けていた講座が効いたらしい。

出産という、私にしかできないことに集中し、可能な限りリラックスして臨むためには、私が周りに渡してきた力を私に返すことが必要……というような内容が腑に落ちたとのこと。それでその後、体調悪くなってたので結局私にケアされて、「ケアってこういうことか」と体感した様子。

一方の私は、この期に及んでの伝わらなさに打ちひしがれ、そのワークの前半は、産後落ち着いたら離婚か消えるかとか協力をやめる方向での決意をしようとしてるくらいだった。ワークを通して少しその考えから離れるイメージに入りこめたのと、パートナーの腑に落ちた後半部分は寝ちゃってたので、知らないうちに相手が何かに気づいていて、拍子抜けでした。

身体の話に戻って。 妊娠出産子育ては肉体の大仕事…

パートナーの場合は、精神的な負担が割とわかりやすく身体反応として出るという自分自身の弱さを自覚し対応してきたことや人間性のよさもあって、「元気な時は鈍感だけど身体への繊細さやケアの大切さは理解している」から助けられた。

でも周りの家族や男性を見ると、特に社会的に強い立場に立てる人ほど、ハードな労働環境で働き続けられたり、選挙に出られたりするような身体的なタフさがある。それは自他の身体に鈍感であるがゆえと言うこともできそうだし、必ずしも健やかな強さとも限らなかったりするので、弱った精神のはけ口をより弱い存在や他者の弱い部分に向けることで、自身を安定させたり紛らわせる人もいるようだ。

冒頭で挙げた、産後ケアの広まらなさや、夫婦のコミュニケーションの齟齬、子育ての行き違いとの関連でもう少し詳しく書いてみたい。

たとえば、助産師さんによる産後ケアを女性が受けたいと思っても、「必要ない」と認めてくれない男性(パパ、夫)がいると聞く。男性の「No」あるいは「?」を説得し理解を得ることは、産後の女性にかなり苦しい。
ホルモン、メンタルそういうものも全部身体由来だし、言語でのやりとりがしにくい脳の状態になっている。
しかも、安くても3000円ほどお金のかかることでもあるため、産後で収入が減っていたり仕事をしていなかったりする女性にとっては、葛藤する出費でもある。

産後ケアを何か知らない、産後の女性の身体的状態がわからない。それ自体は、男性が経験できないから仕方ないかもしれない。でもそこに、体への鈍感さが加わってしまうと、かなり悲劇的な事態になってくる。

よく聞く「産後うつ」は単なるメンタルだけの話ではなく、産後という身体的危機と子育てという生活の変化の結果として現れると理解していいと思う。
産後が過ぎれば勝手によくなるものでもないし、母子の命やその後の親子関係=子どもの人生にも大きく影響する。

子育てというのも、肉体の使い方にかなりの変化を要求され続ける。
ぐにゃぐにゃとした人間を支えながら母乳を与えるのも最初は簡単ではないし、3kgの子どもを何時間も抱っこするのも、仕事にしてない限りは…いや、仕事にしてたとしても昼夜問わず自分だけでというのはやったことがない人がほとんどのはず。かなりキツイ。
私は産後に「筋トレしとけばよかった…」と、腱鞘炎の両手首を眺めた。(※筋力だけでなく、身体の使い方が整えば腱鞘炎になるとは限らない。)

しかも、1日8回10回という授乳で睡眠不足にもなるので、身体的回復もそれまで以上に厳しい。

おめでたいこと、喜ばしいことと見なされがちで、自分の親も含めて身近な人たちが経験してきた妊娠出産育児を、男女問わず未経験のうちに軽く見てしまうことは仕方ないと思う。

ただ、実際に妊娠し出産に向けて時間が経過するなかで、身体的経験として男女で大きな違いが生じてくるという事実には、お互い自覚的に向き合う必要があるだろう。

私は、「男性は経験できないからわからなくても仕方ない」「男女の違いや役割ってあるよね」と諦めたくない。
男性の苦しさがあるなら理解して支えあいたいし、女性だって個人差があるんだから言葉にすることで気持ちや身体が楽になれる人が増えると思っている。

妊娠や出産や子育てを、漠然とした不安なものにしておきたくない。人生楽しみたい。自分の生きる世界を気持ち良くしておきたい。

それだけなんだけど。
まーた、なんだかんだと長々書いちゃったわ(笑)

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