見出し画像

大年神 イズ カミングスーン

自分勝手だよなーとつくづく思う。生まれた子どもが自分の理想に合わないからって簡単に見捨てるし、不機嫌になると暗い部屋に閉じこもって周りの人に迷惑をかけるし、ちょっとしたことで怒って大暴れして、国一つを平気で吹っ飛ばすし。ほんと、いい加減にしてほしい。

……といっても、これは日本の神様たちのことだけれど。

『古事記』を少しでも読んだことがある人ならばおわかりいただけると思うが、日本の神様たちはひたすら身勝手だ。空気を読んだり相手の気持ちを考えることなんてせず、気の赴くままに生きている。「隣人を愛せ」と教え諭すような神様たちではないことは確かだ。

そういえば大学の講義で、民俗学の先生は「日本の神様は、こちらがご機嫌をとる必要がある、面白い神様たちばかりです」と話していた。神様に祈るときに金品を納める必要があるのも、「営業マンが得意先にお中元やお歳暮を持っていくのとあまり変わらない」と、先生が笑っていたのを思い出す。

毎年、正月になると家にやって来るといわれている「大年神」も、そんなわがままな神様の一人だ。一家の安泰や繁栄を見守るこの神様は、年始に家が綺麗な状態でないと玄関にも入らずに帰ってしまうらしく、注連飾りや門松などの玄関飾りがないと「俺を出迎えるつもりはないってことね」と、やはりふてくされて帰ってしまう。

「そんなわがままな子に育てた覚えはありませんよ!」と私が神大市比売(※大年神のお母さんです)だったら注意すると思うけれど、あいにく私はただの人間なので、大年神の気分をサゲないためにも、年末になると毎年大掃除をしている。

忙しい年末に最低1日はかかる大掃除は、面倒オブザイヤーな行事だ。だけど、家じゅうの窓を全開にして、この1年で溜まったホコリを追い出すのは悪い気分じゃない。冬の乾いた空気が家の中を清めていくのがわかるし、終わったあとの綺麗な部屋を見れば、大年神じゃなくても機嫌はよくなる。

そう考えると、大年神をはじめとする日本の神様は、とても人間に近い感覚をもっているんじゃないかと思えてくる。綺麗で清潔な家は誰だって好きだし、自分を迎えるために玄関をデコレーションしてくれていたらうれしいし、金品をもらうことを嫌がる人はそんなにいないはずだ、たぶん。

だから、これから日本の神様にお祈りするときには、自分がしてもらって一番うれしいことをしてみようかと思っている。お賽銭を増やすとか、酒を大量にお供えするとか、神様をUSJに連れて行くとか……。そう考えれば考えるほど自分の欲望が晒されてしまうのは、神様のしわざなんでしょうかね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?