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歳ですが、何か?

 本日12月30日。大晦日イヴ。私の誕生日です。
 おめでとう私。ありがとう私。

 「おばさん」という自称が自虐でも謙遜でもなく、単なる事実といえる年齢になって早数年。そんなおばさんが、今年から新しいことにチャレンジしています。

 おかげで、「あなたの年齢では無理」「年齢を考えろ」みたいなことを言われることが増えまして、さらには悔しい経験をすることも増えまして、「やっぱりこの歳になったら、やっちゃダメなことなのかなー」と自信がフニャフニャになったりもしています。

 そんな私が、今後なにか言われたら、「たしかに歳ですが、何か?」と言い返していこうと決意しました。そのきっかけは、先月、取材で岐阜を訪れたことです。

 岐阜では中津川を中心に回り、最後に岩村城下町を訪れました。
 古い町並みを残した岩村城下町は、数年前の朝ドラ『半分、青い』の舞台になり、映画『銀河鉄道の父』のロケ地にもなりました。

 中に入って見学できる家屋がいくつかあり、それらをすべて拝見しました。その中でも「木村邸」は、もっとも大きなお屋敷でした。

「木村邸」のパンフレット

 「木村邸」と名が付くくらいですから、木村さんというご一家のお宅なんですね。木村家は、代々岩村藩の財政を支えていたというのですから、名家中の名家といってもいいでしょう。

 立派なお屋敷を見学していると、案内の方が裏手にある蔵を指さしました。

「あの蔵は、ここの奥様だった方が、もともとあった蔵を半分切って壊してしまったんです。奥様は残した半分を隠居用に改築して、お茶会を開いたり、書画を嗜んだりされていたそうです。しかもね、改築の設計は、奥様ご自身でなさったんです」

 蔵をバッサリと半分に。なかなか豪快な奥様です。しかも自分で設計までするなんて。

 この奥様の「隠居蔵」の一階は、奥様が亡くなった現在(1992年に亡くなっています)、地域のお祭りのお神楽の練習場所となっていますが、二階はそのまま残っています。
 これがね、とても素敵な設計&デザインになっているんです。

階段に上がる前の石段には、奥様が旅先で拾った瓦が埋められています。
唐招提寺の瓦は、どうやらレプリカのようです。
二階へ上る階段の手すりには、曲がった木が使われています。
二階のお部屋。棚には、いろいろな国のお土産と思えるものが並んでいます。
軒の裏には笊、襖には扇を配置しています。
二階から庭を見下ろしたところ。飛石の形・大きさは、あえて揃えなかったのでしょう。

 これだけの設計をなさったのであれば、奥様は若いころから書画などを学ばれていたのかな?
 お土産の品があれだけあるってことは、ご主人とたくさん旅行なさったのかな?

 そんなことを思ったのですが、案内の人が言うには、まったく違うのです。

「奥様はご主人が亡くなって、70歳を過ぎたころから書画を始めて、やっと旅もできるようになったそうですよ。おかげで90歳を過ぎても、海外旅行に行かれるほどだったそうです」

 え? 70歳から?
 ぜんぶ70歳からやり始めて、ここまでやったの???

「(小声で)もともとセンスのある方だったようですが、ご主人が生きていらっしゃった間は、あまり自由にはできず、ご苦労されたようでしてね……」

木村歌江さん

 これが、その奥様のご遺影です。お帽子に手袋。素敵です。

 本名は「木村けい」さんですが、雅号的に「木村歌江」さんと名乗っていらっしゃったようです。なのでここでは、歌江さんとお呼びします。

 歌江さんは、羽島市にある造酒屋「千代菊」を営む坂倉家のお嬢様でした。木村家への嫁入りの際には、打掛を四枚持ってきたそうです。

 打掛というのは、花嫁衣裳としていちばん外側に羽織る着物ですね。派手な刺繍がバーッと施されている、女性の着物の中でも高級なものです。それをわざわざ四枚持ってきたのは、持参金代わりだったからではないでしょうか。

 「だったら現金を持ってきたほうがよくない?」と思う人もいるでしょうが、手刺繍でできた一点ものの打掛は、年代を経るごとに価値が上がりますので、放っておけば価値が下がる現金よりも価値があるといえそうです。

 それに現金なら、婚家に渡してしまえば勝手に使われる可能性がありますが、打掛ならお嫁さんの許可なしではお金にできませんからね。嫁ぐ娘が、婚家である程度大きな顔ができるようにするための、最善の「持参金」が打掛だったと思います。

 そして歌江さんの弟さんについても、驚きでした。

「高名な建築家 坂倉準三氏の姉に当られる」(原文ママ)

 え? 坂倉準三氏のお姉さん?
 あの、ル・コルビュジエの弟子で、新宿駅西口広場の設計をした坂倉氏の?

 偉大な建築家が弟さんだったということは、おそらく歌江さんの美的センスは、坂倉家由来のものだったのかもしれません。

 それにしても、です。
 ここまでのセンスのある女性が、結婚後に自由もなく、ひたすら婚家に尽くし、ご主人にも尽くしていたのです。
 一方で弟さんは、帝大を出てパリに留学して、コルビュジェの弟子となり、パリ万博の日本館や新宿駅西口広場など、名立たる建築物の設計を行い、名を馳せていたのです。

 そんな状況を思うと、嫁いできてから70歳までの、歌江さんの気持ちがグッと迫ってきます。

「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」

 これは樋口一葉の小説『にごりえ』に出てくる一節です。この言葉が、70歳までの歌江さんの気持ちと思えなくもありません。

 70歳からあれだけ花開いたセンスを、ずっと内に秘めて生きてきたのです。女性が社会で活躍するのが難しい時代だったとはいえ、「弟はあれだけ才能を発揮しているのに」といった気持ちを、抱いたこともあったのではないかと思うのです。自分のセンスを持て余してしまったことも、あるんじゃないかと思うのです。

 歌江さんが今の世に生まれていたならば、何らかの形で活躍していたと思うんですよね。弟さんに負けず劣らず、有名な方になっていた可能性もあります。

 いや、そんなことはどうでもいいのです。だって歌江さんは、70歳からでも、ちゃんと自分のセンスを発揮したんですから。私はめちゃくちゃ感動しましたよ。「隠居蔵」のあまりの素晴らしさと、70歳までセンスを発揮せずに耐えた歌江さん忍耐力と、70歳からでも必死に自分のやりたいことをした向上心に。

 そして、これこそが人生だと思いました。何歳になろうとも、言い訳も責任の押し付けもせず、だれの評価も求めず、自分のためだけに自分のセンスを発揮する。最高じゃないですか。これぞ女の人生じゃないですか。

 歌江さんの残したものを拝見して、私は頭の中で自分を殴りました。なに年齢を言い訳にしとんじゃ、と。年齢のことを他人から言われて、それを言い訳に逃げようとしてんのはお前じゃないか、と。歌江さんは逃げてないぞ。たとえ70歳だろうと90歳だろうと、自分のやりたいことをしていたぞ、と。

 だから私は、歳のことはもう言わないことにしました。だれになんと言われようと、70歳になろうと90歳になろうと、自分のやりたいことをやる。それが人生じゃないか。それこそが生きるってことじゃないか。それが「自分の人生は自分がつくる」ってことだよ!

「たしかに歳ですが、何か?」

 誕生日と、年の終わりの言葉として、これ以上にふさわしいものはないと思うんですけど、何か?


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