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【散文】書物にとっての喜びは読まれること

書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』より

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『薔薇の名前』という物語では、中世の修道院の図書館が舞台装置として重要な役割を果たしています。
物語に出てくる図書館は、修道院の最も奥まった場所に迷宮のように配置され、厳重に管理されていました。
いわゆる正統の教えを記した書物だけでなく、異端と言われるもの、異教の書といった「禁書」の類が収められていたのです。

「偽りの教え」が人々の目に晒されることがないように、図書室の全貌は限られた数名の管理者にしか与えられない秘密でした。
この閉ざされた知の迷宮こそが、事件の鍵を握る場所として設定されています。

図書館のイメージとして、作者のウンベルト・エーコはホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説『バベルの図書館』を念頭に置いていたようです。
まさにその場所自体が「宇宙」と言っても過言ではない、迷宮のような知の殿堂を描いた短編小説です。
司書は図書館に閉じ込められ、この中で生涯を終えるという設定です。

閉ざされた一つの宇宙としての図書館のイメージ。
しかも『薔薇の名前』の図書館は、禁書を人々の目から遠ざけるための装置です。
本来、書物は未知の世界に通じることのできる窓だと、文学研究者の和田忠彦さんは書いています。
他者性へと開かれているのが、本だと言えるかもしれません。

ところが、物語の中の図書館は読まれることを禁じられた本が、多数収蔵されているのです。
そこで、冒頭に引用したセリフが吐かれます。
元異端審問官で、フランシスコ会修道士のウィリアムの言葉です。
ウィリアムは知を愛する哲学者で、当時の修道士にしては大変柔軟な考え方を持っている人物。

作者自身の想いが垣間見える部分でもありますね。
記号学者であったエーコは、『開かれた作品』ということを語っていて、芸術作品は作り手だけのものではなく、解釈する人によっていかようにも解釈できる可能性を持ったものだと考えていました。
物語もまた、開かれていて完結されていないテクストと言えます。

ですから、『書物にとっての喜びは、読まれることにある』となるのでしょう。
もう一歩踏み込んでみるならば。
世界そのものも、私を誘惑するテクストとして、開かれていると言えるのではないかと思います。
少なくとも、私は世界をそのように見ています。

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