【小説】インクルージョン〜内包されたもの〜7
美しい夢を見た後は、夢から醒めるのが少し怖い。
地上世界に浮上しても、私はまだあの金色の光に守られているような気がした。
「催眠状態が解けた後でも、金色の光はあなたの中にとどまり続けるでしょう。なぜなら、その光はあなた自身の内にあるものだからです」
浮上の過程で、にがよもぎ博士が言っていた。
私がいた場所と、私が戻る場所は、言ってみれば薄い皮膜のあちらとこちらなのだそうだ。よほど深いところに潜り込んだように思えたけれども、実はふたつはさほど離れていないらしい。
通常、ゲルのようなものでできた膜の所在はほとんどの人が知らないし、たとえ存在に気づいたとしても、越境する方法を知る者はわずかしかいないのだという。にがよもぎ博士は、越境可能なポイントのことを「やぶれ目」と呼んでいるようだ。膜には弱い部分があって、その部分がやぶれ目なのだという。
博士は膜のやぶれ目を見抜いて、ゲルを軟化させて越境するという方法を編み出したのだそうだ。膜はそれ自体が生き物であるかのように、日々変化している。やぶれ目も昨日と同じ場所に今日もあるとは限らないのだ。
「それを見抜くためには、特殊な技能と訓練を要します」
にがよもぎ博士はごく控えめに、そう言った。
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にがよもぎ博士のところに通ったのは半年ほどの間に、3回きりだ。その間に、私は前の職場を辞めて、知り合いの経営するコワーキングスペースの受付のアルバイトをすることになった。店番は前の職場に比べるとかなり暇な部類に入るし、オーナーさんも温厚な人なので、居心地は悪くない。仕事中に混乱することもほとんどなくなった。
前の彼氏との思い出が染み付いているアパートを引き払って、別の街に住むことも決めた。新しい仕事に馴染むのと、引越しの準備とで忙しくしているうちに、自然と博士の心理療法から遠のいていった。
先日、たわむれにあの診療所の辺りを歩いてみたのだが、瀟洒な住宅地の中の控えめな一軒家には人の気配がなかった。よくみると門柱の脇に借家を示す小さな看板が出ていて、不動産屋の電話番号が書いてあった。
私の部屋の片隅では、セレスタイトがひっそりと輝いている。
石は静かだけれども、何かを語りかけている。私は何も考えずに石の言葉に耳を傾けるのが好きだ。石の時間は生成される宇宙の時間だ。人間の一生というせせこましい時間を超越している。
今もどこか知らないところで、成長したケミカルガーデンのカラフルな樹林が生い茂っている様子を想像してみる。コロイドのことはさっぱりわからないけれど、その光景は思ったよりも悪いものではないような気がした。
〈了〉
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