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10年越しの夢の一歩

2022年2月15日、株式会社プロフィナンスの5年目の設立日である本日、改めて当社プロダクト「ProfinanSS」の新バージョンをリリースすることができました
新プロダクトサイト:https://profinanss.com
プレスリリース:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000013.000052448.html

2019年12月に無償版をリリースしていますが、色々考えると、「僕が本当に出したかったのはこれだ」という意味で、今回が第一歩と言えます。

LPも刷新しました

このプロダクトは、実は2009年に構想を描いたものです。
僕にとっては10年越しの悲願となります。
過去連載していた「エモいファイナンス」の特別番外編として、この10年越しの夢、その経緯について、折角なのでnoteにまとめてみることにしました。若干、いや相当暑苦しい内容ではありますが、一旦文章にしておくことに意味があるかと。長文ですが、よろしければ酒の肴としてお付き合い頂ければと思います。

これは一つのプロダクトを思い続け、焦がれ、何度も挫折と絶望を繰り返し、それでも周りの支えがあって一歩踏み出せるまでのノンフィクションストーリーです。


原点は「Excelに切り刻まれた悪夢」

2006年、大学院を修了した僕は、投資・コンサルティングを事業とする株式会社インスパイアに入社しました。同社採用の新卒一号として拾ってもらいました(正確には中退で入社した先輩がいましたが…)。
最近、色々な文筆活動で有名な成毛眞さんが創業者として社長だったころです。

最初の担当先ユーグレナ

新卒で入社してすぐに担当したのが、今やバイオベンチャーの雄となった「株式会社ユーグレナ」、その創業初期でした。
インスパイアとして、同社に投資することとなり、現在のインスパイアの社長(当時副社長)である高槻さんと二人でこちらのプロジェクトを推進することになりました。
投資実行後は、初期的に大手のエンジニアリング会社さんと技術アライアンスを目指して、一緒に技術戦略を策定するなど、工学バックグラウンドとして楽しく担当させていただいていました。現在もCTOとして活躍されている鈴木さんに頂いた、ユーグレナの論文を全部読み一緒に考え、資料に起こす、という大変楽しい仕事でした。
ある日「そろそろファイナンス(=資金調達)するから事業計画(数値)を作れ」と指示がありました。当時、今で言う投資家向けピッチデックはありましたが、数字の詳細計画は未作成でした。
何の知見もない僕です。入社前に簿記3級だけ取らされていただけ(ちなみに一度腹痛による途中退出で不合格になっています笑)。簿記3級のテキストを引っ張り出して、何とか損益計算書(PL)だけ作って、ボスに持っていったら、一言。「これじゃねぇよ」と一笑に付されました。
ユーグレナは当時から設備投資型ビジネスを志向しており、設備投資は会計的には資産、つまり貸借対照表(BS)に表れます。もちろんおカネを払う支出も伴うので「キャッシュフロー(CF)」も考えなければなりません。この設備投資を考慮し、BS、CFを連動した、いわゆる「財務三表モデル」を作成する必要があると言われました。
インスパイア自体は当時、「スタートアップを支援するスタートアップ」です。みんな忙しい。ボスも忙しい(し、めっちゃ怖い)。誰にも聞けません。自分で勉強するしかない。
当時は、Excel事業シミュレーションに関する書籍なんてほぼ皆無です。Excel自体は、工学系だったこともあり一定計算式を組めるのですが、財務でのPL、BS、CFが連動するようにするにはゼロから勉強するしかありませんでした。財務三表の連動を直感的に解説してくれる名著、「財務三表一体理解法」も、熊野さんのExcelシミュレーションの本もまだ出ていない時期でした。
PL、BS、CFをつなぐまでは数日でできたのですが、ここで大きな壁が現れました。そう、財務三表モデルを作成するときに、初心者が必ずぶち当たるアレ。「バランスしない(=BSの資産と負債・純資産が一致しない)」状態です。
ここからが苦難でした。色々試行錯誤するのですが、どうやってもBSの左右が一致しない。一致しない限りは財務三表モデルとしては落第です。
夜中になるまでExcelと格闘しますが、バランスしない。何とか寝ようとすると1ヶ月過ぎたあたりから、夢にExcelが出てきます。Excelのセルがバッ!と空中で分解し、その分解したセルが自分の身体に突き刺さる、Excelのセルに切り刻まれる悪夢を見るようになりました(実話です)。
バランスせず、2ヶ月が経過しようとしていました。意を決して、それまで作業していたExcelファイルをゴミ箱へ。ゼロから作り直します。
作成時間1日。バランスしました…
おそらくどこかに計算エラーがあり、ノウハウも知見もない僕ではそのエラーを発見することはできなかったのでしょう。今でも何がエラーだったのかわかりません笑。しかし、こうやって悪夢の日々から解放されました。

悪夢から自信へ

この苦しい経験は、自分にとっては大きな糧となりました。また、ユーグレナの出雲さんも喜んでくれました。ファイナンスも成功。ユーグレナとして初の大型資金調達を実行することができました。(事業計画がよかったから、というのではなく、もともとの事業モデル・技術が素晴らしかったからです)。
その後、出雲さんが嬉しそうに報告してくれました。
木村さん、主幹事証券に手を挙げてくれている外資系投資銀行(どこだったか名前忘れました汗)から『こんな精緻な財務モデルを作っているベンチャー、初めてみた』って言われたよ!」と。
この言葉が大きな自信になったのは間違いありません。いや、「苦労が報われた」と思えた瞬間だったと思います。
※今思えば、2ヶ月も根気よく待ってくれた、ユーグレナとボスに感謝です。

それから、投資先の事業計画をよく作成するようになりました。色々なモデルを作る中で、財務モデルをテンプレート化しました。
対象会社の社長に過去の決算書と、A4用紙1枚程度のアンケートへの回答を依頼します。この2つを受け取ったら翌日には、事業計画(PL・BS・CF連動モデル)のファーストドラフトができている。
趣味が爆発して、ROICツリーや株価算定書まで付随したものを作っていました。
このテンプレートを活用して、メディア企業で買収により事業成長を狙うモデルや、受託型製造業で開発リードタイムがやたら長いモデル、一定生産ラインが安定したハードウェアスタートアップで製造原価シミュレーションも必要なモデル…
今思えばこのExcelテンプレート自体が、ProfinanSSの最初のMVPだったのかもしれません。

社内でも同じ部署の人に数字の計画の作り方を社内研修的に実施したこともあります(現ユーグレナCEOで、先輩の僕なんて軽く飛び越えていった永田さんも出席してくれたのは今となっては自慢していいのかもしれません)。

これは本当に意味があるのか?

様々な事業モデルでの事業計画を作成していた中、事業計画を作成するという行為自体にどこまで意味があるのか?ということを考えるようになりました。僕の手の届く範囲であれば、僕が作成支援をすればよい。しかし、世の中には自分でやらないといけない起業家もいる。
そもそも事業計画を作成するという行為において、その時間の90%が「Excelワーク」です。ただ、「数字で考えること」自体は非常に有益であることがわかりました。実際投資先の収益モデルを作る中で、順調な成長を描くものの、その過程で「資金ショートとなる可能性」が示唆でき、対処する方策を前もって考えることができたこともあります。
起業家にとって、「頑張らないといけないこと」と「頑張らなくていいこと」を峻別したとき、前者は「数字で考えること」で、後者が「Excelに疲弊すること」です。
これが今のProfinanSSを思い描くにあたる最初の灯火となりました。

ProfinanSS実現に向けた最初の挫折(2010年)

インスパイアを退職したのち、最初の転職でベンチャーの海外事業起ち上げに携わりました。その転職先でのきっかけも同社の事業計画を作成したことでした。
自分としては海外での起ち上げは未知数、とってもチャレンジングな取り組みで、失敗も挫折も経験しました。
そんな中で、「自分でやってみよう」(=起業しよう)と考えました。
もちろん、起業アイデアは「Webで事業計画がカンタンにできるサービス」。そう思って、2009年12月にprofinanss.comのドメインを取得していました。
2009年末に日本に帰国し、そのまま退職。起業準備に取り組みました。

「会計ソフトすら」

もともとVCにいたこともあって、投資家・VCの知り合いは多く、僕のお世話になっている先輩投資家に話を聞いてもらいに行きました。

当時の資料の抜粋。ほぼ言ってることが変わってない笑
ProfinanSSのfが大文字だった

しかし、こう言われました。
いいんだけどさ!会計すらクラウドになってねぇぞ!
そうです。年が明けて2010年。クラウド会計ソフトの雄、freee社もマネーフォワード社もまだ生まれていない時期です。何だったら「クラウド」という言葉すら一般的ではない、「ASP」とかで表現されていた頃です。

早すぎたのではない、●●がなかっただけ

結局、多くの投資家からも同じ反応でした。
それでも、それでも何とか実現できないか。
なんとか少しでも稼ぎながら開発できる方向性を模索します。
高校生時代の同級生でエンジニアやっている友人に協力をお願いしました。
本業もありますので、週末の時間に協力してもらいました。もちろん手弁当。彼らの給料なんて払うほど稼げもしません。
稼ぐと言っても当時でも社会人5年未満。お客様も昔からの飲み仲間。僕の苦労を見かねて、「食い扶持くらい」という感覚で仕事を振ってくれていたに過ぎません。正直、今思えば絶望的なバリューの低さです。
そんなことを数ヶ月続けて、そのお客様である会社の社長からもこう言われます。
「きむちゃん、そろそろ色々考えた方がいいんじゃない?」
こう言われたころ、プロダクトは、というと1mmも進捗していません。
そりゃそうです。私自身も開発ができません。手弁当で協力してくれる友人にお願いしているレベルです。週末に協力してもらって進めれる程、「ゼロから有を生み出すこと」は甘くありません。
それまで散々周りから「起業向いてるよ」と言われてきたからこそ、勘違いもあったでしょう。
右肩下がりの銀行口座残高。「思ったより、自分は弱かった」とその頃には自覚していた時期でした。
そこで、決断です。手弁当で協力してくれていた友人を集めました。
付き合わせて悪かった。一旦、仕切り直す。ほんと、ごめん。
全部自分が悪かったのです。今思べば友人一人はWebエンジニアでもなく、組み込みエンジニアとAIエンジニア。スタート時点で間違えています苦笑。
それでも何とか手伝ってやろうと週末を潰してくれていた二人の友人に今でも頭が上がりません。
とはいえ、彼らはめちゃくちゃ頭がよい、優秀なエンジニアです。一人は量子コンピューティングを、一人は自然言語処理を研究していた人たちです。
仕事をやめてもらって、給料を払い、フルコミットをお願いしていたらできていたかもしれません。いや、できていたでしょう。
全ては僕の覚悟が不足していた、それだけだったのです。
「クラウド会計ソフトがない」なんてのは起業家にとってはどうでもいいことです。それを乗り越えるだけの覚悟がなかった。
成功した暁に「不格好」とか言うのは不格好でも何でもありません。
始まることすらできなかった、自分の不甲斐なさ、ポンコツさに絶望しかありませんでした。

再就職から

そんなわけでもう一度、「組織に属する」ことを選びました。
そして行き着いたのは「デロイトトーマツコンサルティング(DTC)」。
2011年9月に入社です。

生きた財務三表のモデリングスキル

デロイトでの仕事も順風満帆スタートというわけではありませんでした。色々な意味で伝説級のプロジェクトに入社早々アサインされ、1ヶ月でリリース(つまりプロジェクトから降ろされる)という憂き目に合います。
ただ、挫折を知った後の僕はメンタルが2割くらい増しにマッチョ化していました。「プロジェクトにアサインされていない(=暇)」で、それなのに「給料が決まった日に振り込まれる」って天国やん!と1ヶ月程、グローバルファームならではの豊富なe-learning講座を受けまくっていました。
一定英語ができるということで、面白いプロジェクトにアサインされたものも実稼働は僕一人で、結構ノホホンとプロジェクトに取り組みつつ、いい感じにパフォームできていた矢先でした。
海外から着信。それは経産省からタイの政府機関に出向中の友人でした。
木村さん、今デロイトだよね?ちょっとミャンマーの仕事手伝ってくれ
うん?ミャンマー?えっとビルマの竪琴?あれビルマとミャンマーって何が違うの?みたいなレベルで話を聞くと、同国が取り組もうとしている大きな産業都市開発を日本として支援する足掛かり的なプロジェクトでした。
あ、もちろん、入札で審査するから頑張ってね
といわれて、ガチャン。
即座に東南アジア・新興国担当のパートナー(コンサル会社での執行役員)に相談に行くと、「それ、めっちゃ面白いし日本企業にとって、東南アジアにとってインパクトがあるから赤字でもやろう!」と。タイで入札なので、タイで懇意にしているチームをすぐに紹介されました。とはいえ、入札用の提案書を作成する工数があまっている人は皆無。結局、自分で提案書は作成することに。
目の前のプロジェクトに携わりながら、海外の政府機関の入札用の提案書を夜中まで作る日々です。
現地のメンバーの協力もあり、なんとか受注。ミャンマーというマイナーなプロジェクトということもあり、あまり競合もいなかった、というのが実態でしょう。
2012年1月からプロジェクト従事のため、3ヶ月出張ベースでタイに常駐することとなりました。
色々紆余曲折ありましたが、現地のチームは本当に優秀で一緒に頑張ることができました。
ただ、そのチームが立ち止まる瞬間が来たのです。
クライアントからの要望で、まだ詳細なパラメータが揃っていない中、一定の仮説を置いて、この産業都市にかかる全ての個別プロジェクトの財務モデルを作れ、と。全ての個別プロジェクトというと、工業団地、発電所、港湾、高速道路、水道等のインフラ開発です。
財務モデル、という切り口で言えば、私自身対応できるかも…とは思っていましたが、インフラ開発ではプロジェクトファイナンス観点での設計も必要となるためイマイチ自信がありませんでした。なので、「僕…できます」と手を挙げることができません。
だいたい、日本人も含めてチームの中、誰も僕がそんなことできるとは思っていません。「そういえばインドにこういうことを専門にしているチームがあるから相談しよう!」となりました。
経緯は省略しますが、インドチームとの電話会議を終えて…どんよりとした空気がチームに漂いました。インドチームに頼むという選択肢が消えた瞬間です。
タイ人チームのリーダーも、「どうすっかなぁ」という感じです。このタイ人チームのリーダーには、このプロジェクトが始まって以来、助けてもらいっぱなしです。
"Eh … maybe I can make it."
気づいたらそう言ってました。
そこからは死にものぐるいです。関連するパラメータの収集(他の東南アジアの産業都市プロジェクトの先行事例に基づく)をお願いし、僕は社内の先行事例を収集して、インフラファイナンス向けのフォーマットを作成しました。

当時の記憶に基づいて、最近別案件で作成したモデル
インフラファイナンスではDSCR等の指標や、
ODAを配慮したDebtモデルを取り込む必要があった

納期はなんと1週間。
1週間、周りからみても鬼気迫る勢いで財務モデルを作っていたと思います。一つのパターンではなくて、前述の通り工業団地、発電所、港湾、高速道路、水道のモデルを全て作る必要があったからです。ほぼ1週間徹夜だったと思います。デリバリーで頼んだインドカレーでびっくりするくらいお腹壊してゲッソリしながら作っていました。

そしてミャンマー事務所開設へ

鬼気迫る勢いで取り組んだプロジェクト。
何とか納品も終えましたが、タイ人チームからの僕の評判は「あいつ(=木村)は尋常じゃない」でした。誰もが諦めかけた複数の財務モデルを鬼気迫る勢いで作り上げたことが決定的だったのでしょう。一方、僕としては「僕が持ってきた責任のあるプロジェクト」であって、もちろん職位としてはスタッフレベルでしたが「めっちゃ頑張る」のは当たり前でした。その噂は、日本側にも知れ渡ることになったようです。
3ヶ月のプロジェクトを終えて、2012年4月、日本に帰国して久しぶりの日本オフィス出社。「これは面白い」とGOサインをくれたパートナーを見つけました。帰国の報告と御礼を、と思ったら先手を打たれました。
あ、木村くん、東南アジア出向組に名前入れといたから
うん?どういうことですか?
DTCとして東南アジア各国の事務所と連携を深め、日系企業への支援を手厚くするための仕組みを準備していました。出張ベースでコンサルタントを送り続けてきた今までと違って、「現地事務所への出向」を前提に組織を作るという取り組みでした。SEAコラボレーションという取り組みで、コンサルティングファームでも先進的な取り組みだったと思います。その第一陣に何故か指名いただいたのです。
もちろんミッションは「ミャンマー」。
当時、ミャンマーにはデロイトの事務所はありませんでした。この起ち上げがミッションです。ミャンマーに対する経済制裁もあって、実際の事務所開設は2013年にまでズレました。その間はタイでミャンマーのプロジェクトに携わりました。
さて、2013年3月ミャンマー事務所開設と相成ります。デロイトUSにいた、Chrisというミャンマー人と何故か日本人の僕の二人でデロイトミャンマー事務所の起ち上げです。ミャンマー事務所開設の苦労話…はそれはそれで一つの小説分書けそうですが、そういえば本記事は「ProfinanSSというプロダクトの成り立ち」ですので、ここでは割愛とさせていただきます。

*なお、ご存知の方も多いと思いますが、2021年2月を契機にミャンマーで歴史的な変動が起きました。ミャンマーでビジネスの青春を過ごした僕にとっては、忸怩たる想いを抱かざるを得ず、かつ無力さを痛感します。機会が許せばミャンマーでの青春についても振り返りたいと思います。

コンサルから事業会社M&Aへ、そしてCFO

コンサルティングに携わる中で、改めて実務・事業に戻りたいと思い始めた頃です。とある事業会社から、「東南アジアでM&Aをしていき、買収した先のCFOになるとか興味ないか?」と誘っていただきました。
自分にとっては非常に魅力的なオファーでした。M&Aはデロイトでもアドバイザリーという形で携わったことありますが、薄い経験です。
これはチャンスだ、と思ってお世話になることになりました。2015年9月、デロイトを巣立たせていただき、同月事業会社の経営企画部の海外グループマネージャーとして参画しました。(有給消化しといたらよかった)
同社でのM&A業務は非常に勉強になりました。そもそも経営企画部自体、僕が入社した時点で5人。そこに入れわかり立ち代わり案件が持ち込まれます。
2人チームで1案件を回す、という感じだったので、買収検討の簡易DDから、意向書(LOIとかMOMとか)締結後の本格検討におけるビジネスDDの実施、法務・財務DDのマネジメント、契約交渉と全て少人数で対応します。コンサルファーム以上の激務が待っていました。

事業計画、まだExcelで作ってるの?

入社前に聞かされていた海外のディールについてはすでに推進されている部分もあり、あまり僕が出る幕はありませんでした。
一方で、国内のM&Aが始まり、部長からのはからいもあって、まずは国内年商二桁億円規模の企業買収・子会社化を推進することになりました。
もちろんビジネスDDにおいては事業計画の精査もスコープ内です。事業計画を作成することは多数あれど、審査は久しぶり。
そういえば、ProfinanSSを志し、挫折してから5年が経とうとしていた時期です。「海外にも行ってたし、クラウド会計も浸透してきたし、ProfinanSSみたいなサービス出てきてるかな」と思っていた矢先で、買収候補先から提出頂いた事業計画はあいも変わらずExcelシートでした。
もちろん忙しい事業家から提出される、いや今や友人なのでぶっちゃけ言いましょう。検討しようがない粗い粗い事業計画が出てきました。
「うん、これは作り直さないとな」
ということで、DD対象となる事業計画を対象会社の社長と一緒に作成することになりました。
こういう取り組みを通じて、いくつかのM&Aディールに携わりました。
うち1社は、買収後のCFOとしてPMI(買収後統合)にも携わることになりました。
最初の1年でディール自体4件に携わりました。M&A界隈の方からすると、「結構なペース」と思って頂けるのではないでしょうか。ガチDDも含めたM&Aディールを4件というのは、ご経験者でいうと「ほんとに?」という量かもしれません。ちなみに買収後CFOとしてPMIを推進しながら進めたディールもあります。あとは他にも成約に至らなかったM&Aディールもあり、その検討も並走させていました。サラリーマン人生で最も激務だった1年だと思います。「木村以外できない」と言われるくらい激しい案件にもアサインされることなった末に、社内の一部で「Closer」とか「Solver」とかいうニックネームで呼ばれることもありました。
ただ、あまりの激務に身体を壊した(ガンマーカーまでついて精密検査を受けたこともありました)こともあり、「これはあかん、まだ1年だけどこのまま仕事していたらマジで死ぬ。辞めよう…」と思って退職意向を切り出そうと思っていた矢先のことです。部長に個別で呼び出されて、「きむちゃん、悪いけどシンガポールで買収した会社のCFOやってくれない?」でした。
むむむ、シンガポール…だと?インドから始まり、ミャンマー起ち上げとすっかり「新興国の色」がついてきた中で「ハジメテのセンシンコク」オファーに心揺らぎます。
影響範囲が自分である限り、即断即決がモットーの僕ですので、当然快諾です(心揺らいだのは一瞬)。
もちろん色々ありましたが、結果、海外でのCFO経験、計画作成、予算作成、複数事業での事業別予実管理体制構築、など非常に稀有な経験を積むことができました。

結局自分は何がしたかったのか?

シンガポールでCFOに着任、1年が経とうとしていた頃でした。
買収当初から波乱に満ちたスタートでしたが、ぶっちゃけいうと、「リストラ」を断行することになります。
「泥をかぶるのはCFOの仕事」と思っていましたので、退職オファーは私からすることになります。
とはいえ、結局CFOとしてこういう事態を防ぎきれなかった自分に不甲斐なさを感じる日々です。酒に逃げました。
そんな中、「結局、俺は何がやりたいんだろう」と自問することとなります。
グローバルコンサルティングファームであるデロイトで、新しい事務所開設に携わるという非常に稀有な経験に恵まれ、さらにビジネスの総合格闘技と言われるM&Aもかなり深く携わり、M&A後もCFOとして経営に携わる経験も得ました。ビジネスサイド、企画サイドとしては十分色々やらせてもらった。だからこそ、改めての自問でした。
新卒で入社したインスパイアを退職するとき、「VCってなんて素晴らしいビジネスなんだ。いつか、それに見合う自分になったときにもう一度VCビジネスに戻りたい」と考えていたことを思い出し、最初はVCファンドの起ち上げができないか動き始めました。ミャンマー、タイ、シンガポールの経験から、東南アジアの投資家筋とも交流があったこともあり、最初のファンドレイズは「いけるかも」と思っていたときです。
「ちょっと待たんかい」と自分の中の声が響き始めます。
本当にVCでいいのか?
そうしたら考え込んでしまいます。ちょっと待てよ。確かにVCもやりたいことではあるけど、本当に本当にやりたいことって何だよ。
ProfinanSSじゃん…

2017年の晩秋。
一度は諦めた夢です。
しかし、profinanss.comのドメインは、なぜか手放していませんでした。
そして手元には一冊のノート。そのノートは、デロイト入社してから何気なくもっているノートです。そのノートには、「今またProfinanSSを始めるとしたら、どんな機能を実装したいか?」が書き溜められていました。
そうです。全然諦めていなかったんです。
「そうか、俺はやっぱりProfinanSSやりたいんだ」

今度こそ

そこまで思い続けてきたProfinanSSです。
一度は挫折して、自分の覚悟のなさ、不甲斐なさを突きつけてきたこのプロダクトに、僕はまだ焦がれていたのです。
もちろんただ想い続けてきたわけではありません。CFOとして計画・予算を策定し、その後の予実管理も主体で回してきた経験もあります。
スタートアップだけでなく、インフラ開発までカバーしたモデリング経験もあります。
これを実現できなかったとすれば…なんのためのビジネス人生だったんだ。
こんなに思い続ける「実現したいこと」を見つける事ができること自体奇跡に近いのです。
今度こそ、死んでも実現する。

2018年2月15日。
ちょうど4年前の今日、その決意を胸に、株式会社プロフィナンスを創業しました。

産みの苦しみ

「実現することに決めた」ことでプロダクトができるならば苦労はありません。
特にProfinanSSというプロダクト。
「誰もが実現できなかったワケがある」のです。
Excelで作れる事業計画・財務モデル。これをWebで実現するなんて、ぶっちゃけありきたりな発想です。(少なくとも僕はそう思っています)
Excelで財務シミュレーションができる人は、過去一度は考えたことがあるでしょう。
僕の心から尊敬する経営者である、佐山展生さんに創業時ご挨拶に行ったときも、「自分も昔考えてたんや」とおっしゃったくらいです。
そんな誰もが考えたことのあるプロダクトが何故実現できなかったのか。
明らかに開発上の壁があるわけです。

絶望の日々

最初は自分でコーディングしようとしました。
改めて気づいたのは、コーディングの才能・センスは自分には一切ないということです。
何とかフロントエンドはHTML・CSS、Javascriptで構築しました(もちろんフロントエンドエンジニアの方からすると「これで構築したとかいうのやめてもらっていいですか?」とキレられること必定のできです)。
しかし、サーバーサイドで1-2ヶ月止まりました。進められない!
「詰んだ」状態です。

自分でHTML・CSS・Javascriptで作成した初期版
最初から英語で作っていた


ただ10年前と一つ違うのは、一定「稼げる」ということです。
色々な経験を経て、開発費相当分を一定コンサルティングで稼げるようになっていました。
よし、僕は稼ぐ。作るのは…できる人に頼む!
と割り切りました。
その意思決定をしたタイミングでお近づきになった開発会社さんにお願いしてプロトタイプを構築することになりました。
さて、表題の「絶望の日々」。コーディングできない日々を指したのではありません。この開発会社さんとのやり取りがまさしく絶望の日々だったのです。この開発会社さんができなかった、という意味ではありません。
要件を固める際のコミュニケーションにおいて、次のようなことが発生します。
「この機能を実装するには●日かかります。」
「このデザインを設定するには●日かかります。」

どれも自分でExcelで組もうとすると5秒、1分で終わるような内容です。
それが、こと、開発実装という文脈ではその数十~数百倍の時間を要することを目の当たりにするのです。
それが、2-3個とかのレベルではありません。
Excelで財務モデルを作ると、スタートアップでも精緻なものでは300-400行になりますが、1行ごとに上記の言葉を返答でもらうことを想像してみてください。一つひとつ心が折れそうになります。
改めてこう思います。
Excelマジすげぇ。

僕自身Excelは好きなんですが、プロダクトとしては一定Excelを不要にするものです。しかし、その中で改めてExcelの圧倒的な強さを思い知る毎日です。Excelすげぇよ、ほんと。
「あぁ、先駆者たちは、ここで『やってらんねぇ』って思ったんだろうな」
と妙に納得した瞬間でした。
実際に、「オレもこれ考えてた」という方と複数巡り合うこととなります。しかし、みんな口を揃えて「開発工数に絶望して止めた」です。
まさしくこれはチキンレース。

最初のプロダクトリリース、そしてコロナ

そんな中、なんとか2019年12月。ちょうどProfinanSSドメインを取得して10年目にして、いよいよ最初のプロダクトをローンチします。

初期プロダクト画面
現在も実は稼働中


僕の稼ぐコンサル報酬の範囲内でしか開発投資をしていくことしかできません。このギリギリの制約条件の中で、まずは「出す(リリースする)」ということ、ただ自分としてはまだ納得がいっていない部分もあり、ニーズ検証を目的とした「完全無料」としてのリリースでした。
例えば月次での事業計画作成ができていない、等。
これをMVPとしてリリースすることで、改めてエクイティで資金調達を狙う…というシナリオを描いていました。
この目算が甘かったわけです
私自身、CFO経験もありファイナンスを専門としてビジネススクールで教えていたりもします。ぶっちゃけ、講師という仕事は天職で、ファイナンスをわかりやすく教えさせたら結構いい線いってると思います。個人的には「ファイナンス版池上彰」を目指しているくらいです。
そんな活動をしていると、ある人は「木村さん、ファイナンスなんて余裕っしょ!」とおっしゃってくれます。
断言します。
全く関係ありません!
シード、プレシリーズAはファイナンスの知識とか(最低限は必要でしょうが)ではなく、結局マーケットやプロダクトに対する解像度とトラクションです。これってファイナンスの知識とは関係ないんです。
僕のスキルとか知識とか生きるのは、おそらく会社のステージとしてはシリーズA以降なんですよね…
改めて、自分の不甲斐なさ、無能さに直面する日々のスタートです。

そんな中でのコロナ…

死産

コロナですよ、コロナ。
いろいろなゲームが変わってきます。
けど経営者はコロナを言い訳にしてはなりません。
何も言い訳はしません。そして、なかなか進めることができません。
そんな中、今も残って、ゴリゴリ開発を進めてくれているメンバーが参画し、外部の敏腕エンジニアの方と一緒にリニューアル版のプロダクト開発を手掛けてもらうことになりました。
が…多分、僕がいくつも間違いを犯したんだろうな、と思います。
まだ傷跡が残っている生々しい状況なので、詳細はいつかまた語るとして、このプロダクトは死産となりました。頑張って開発してくれたメンバーには本当に申し訳ない。こう書いていても、ちょっと涙が滲むくらい申し訳ないと思っています。
死産にすることを決めたのは僕です。周りから見たら、サクッと決めたように見えたかもしれません。しかし心の中では申し訳なさで泣き崩れていました。開発メンバーにも申し訳なかったし、株主にも申し訳なかった。

表計算の悪夢再び

新たに開発パートナー(企業)を迎えて、プロダクトの再起を目指すこととなりました。
これが2021年3月。結論でいうと、今日リリースしたプロダクトはこの体制でリリースしています。
ここで、改めてユーザーにとっての価値を一つひとつ定義しなおしていき、「事業計画作成体験を実りあるもの」にしようとコンセプトを再定義しました。この過程で、現在のグラフを真ん中に配置しながら変数をいじる直感的なUIや、段階をおって検討を深めることができる「入力レベル」という考え方を実装するに至りました。

新プロダクトの2つの特徴


事業計画を作るとき、必ずしもいっきに全部作り上げるわけではなく、少しずつ思考・検討を深めながら作ります。徐々に考慮するべき変数を増やしていくわけです。
この思考プロセスをプロダクト上で再現しようと行き着いたのが入力レベルです。
僕らとしては、「めっちゃいいアイデア」でした。
カンタンなアニメーションレベルでのモックアップもつくり、何人かユーザーにも声をかけて、コンセプトを説明しても反応は上々。
さて。
大変なのは設計です。
根幹なので入力レベル毎の数式ロジック含めての設計は木村さんで!
…ですよね~…

絶望の日々は前段にありました。
ここから始まるのは、そう、地獄の日々です。
新プロダクトでは変数設定部分を右のエリアに配置するので、プロジェクト内では「右ペイン」と言いました。
このペインは「Pane」は英語で「枠」とか「区画」という意味です。しかしながら、僕にとってはPaneではなく、「Pain」、苦痛そのものでした。

実際作っていた数式ロジック
800行を超え、AH列まで


たとえばサブスクモデルといってもどこまでが入力レベル1(=変数が少ないシンプルな入力)で、入力レベル2、3でどこまで設定できるようにするか。その間変数はどういう中間計算が必要で、その計算結果としては小数点を許容するか否か、許容する場合は、小数点何桁まで見るか…

作り切るまで2ヶ月以上かかりました。
Excelではなく、GoogleのSpreadsheetで作成しましたが、朝起きるとこのスプレッドシートに向き合う日々。考えあぐねて1日1行進まない日もありました。
売上モデルを10パターン作るころには1ヶ月以上が経過していました。ここから売上原価、集客投資、人件費、地代家賃、設備投資、資金調達の設計が待っている…
冒頭でユーグレナの事業計画作成に際して、Excelのセルに切り刻まれる夢を見た、という話をしました。
今度は、Spreadsheetのこの設計シートが壁になって、カウントダウンとともに迫りくる、という悪夢を見ました。Final Fantasyでいうデモ●ズウォール…
苦しいことに、作り進めると、「あれ、整合性おかしいじゃん」っと戻って作成し直す、みたいな繰り返しの日々です。
何とか資金調達、つまり検討するべき項目の最後まで辿り着いたときには作りはじめて2ヶ月以上過ぎた、2021年8月の終わりの時期でした。
とはいえ、さらにこれをプロダクト実装レベルに解釈し、実装してくれたメンバーには頭が…本当にあがりません…エンジニアってすげぇよ。

その後ももちろん順風満帆というわけではなく、苦闘の日々でした。
あまりに直近のことで生々しすぎるため、もう少し客観視できるようになったら、この頃の七転八倒については文章にしたためたいと思います。

そしてプロダクトリリース

夢の一歩

長くなりましたが、時間を本日に戻しましょう。
自分で言うのもなんですが、艱難辛苦を乗り越えて、ようやく僕の10年を超える夢の一歩が踏み出せそうです。はい、まだ「一歩」なんです。
ここに至るまでに、ポンコツな僕を支えてくれたメンバー、色々飲み込んで一緒に夢見てくれている開発パートナー、心待ちにしてくれたユーザー、いろんな状況をみて叱咤激励・応援してきてくれた株主の皆様。
皆のおかげでようやく、「世に問える」ところまで来ました。
そうなんです。ここで終わりではないんですよね。
僕らは「ビジネス」をしています。結局は、夢の一歩だろうがなんだろうが、「売れなければ意味がない」わけです。
夢の一歩とは、夢の成就という意味ではないんですよね。ここから、なんです。
そんなプロダクトとして、LPにもいろいろな思いを込めてみました。
実は、このLPのコピー、僕の高校時代からの友人で、僕に広告の素晴らしさを教えてくれた、電通のクリエイティブ・ディレクターである嶋野裕介さんにご協力いただきました。社会人になって、焼肉を焼きながら、何故彼が広告マンを志したのか、そのストーリーに感銘を受けて、「いつか自分の会社を持つことになって広告を考えるようになったら、嶋野さんにお願いするんだ」と個人的に決めていたことです。短時間に僕が思いもつかないようなコピーを数十個提案してくれました。LPではそのうちのいくつかを採用して訴求しております。残念ながらスタートアップ。電通のクリエイティブ・ディレクターにお支払いできるような報酬を用意できるわけがありません。将来必ず10倍、100倍返しすることを決意しています。嶋野さん、本当にありがとうね。

プロダクトに込める想い

僕は、このプロダクトを世に出すときに心に決めたことがあります。
それは「自分を殺すこと」です。
遡ってお気づきのとおり、僕自身ビジネスパーソンとして色々な経験に恵まれてきました。また今、起業して「稼ぐ」という切り口でいうとバカにならない報酬を頂けるのは、「収益計画・シミュレーションを作れる」というスキルによるものです。
しかし、ProfinanSSというプロダクトが実現しようとする世界は、「僕がいらない世界」です。
僕が、これから一生かけて企業の事業計画作成のご支援をコンサルティングとして受けたとします。どんなに頑張っても本気で取り組んで1週間に1社がマックスでしょう。営業工数等を無視して、祝日も関係なく稼働して事業計画を作り続けたとして、年間52週。つまり52社の支援しかできません。私は今年で42歳になりますが、せいぜいExcelで作れるとすれば…サバを読んでも30年でしょうか。たかだか1,500社です。1,500社って世の中、日本だけじゃなく、世界でみたとき何%を占めるのでしょうか。日本だけでも300万社と言われます。
社会的インパクトが小さい…、と思いました。
しかし、これをプロダクトで実現できたとすれば?
300万社全ては無理だとしても、無邪気に「シェア20%だ!」といって、60万社をカバーできるかもしれません。
「僕がいらない世界」を作るかわり、その何百倍もの企業を助けることができる可能性があります。

事業計画の可能性

僕は事業計画という取り組みに対する可能性を信じています。
事業計画なんていらない!という人もいますが、そもそも「計画」という言葉に後々ついた「達成しなければならない」とかそういう追加要素が前提とされているようです。ここについては改めて触れたいと思いますが、この変化の激しい時代において、「計画」というもの自体の意味合いも変わってきています。

最近、海外も含めて類似サービスが相次いで発表されています。
この時期においては、これらの類似サービスは競合ではなく、「マーケットをつくる戦友」だと、僕は勝手に思っています。
しかし、一点だけ、グローバルでの類似サービスでも文句を言いたいことがあります。
それは、「事業計画というものを悪者にしている」点です。
口を揃えて、「事業計画作成を効率的に」と仰る。
業務に対して「効率性」を訴える場合、「その業務は本来はやらなくていいこと」、「その業務は悪」という暗黙の前提があるように思います。
事業計画を作るという行為自体を「業務」として捉えてしまっているからです。
僕は、事業計画を作るという行為は「クリエイティブな行為」と考えています。なぜって?会社の将来を数字で描く行為なのですから。
クリエイティブな行為を「効率化する」と言うでしょうか?
言いませんよね。(もちろん一定の効率化は必要、画家に絵の具を作れとまでは言いませんから)
クリエイティブな行為において考えるべきは、効率化ではなく拡張なのです。
なので、常に僕らはProfinanSSを「業務効率化ツール」ではなく、「思考拡張ツール」と位置づけて考えてきました。
僕が、まだグローバルな類似サービスに勝てるとすれば、もっというとExcelなどの表計算ソフトに勝てるとすれば、誰よりもここに気づいているからです。
事業計画という行為は効率化する対象ではないのです。
事業計画という行為に取り組むユーザー、つまり経営者の思考を補助し拡張すること。それこそが、事業計画プロダクトに求められる最大の提供価値です。
もちろん、ProfinanSSというプロダクトにおいても、「カンタンに事業計画を作れること」を推しています。しかし、「カンタンに作れるからよかったね」ではないのです。カンタンに作れるから、その分の時間や思考のリソースを一つひとつの数字に向き合う時間に使ってほしい。それが自然とできるUXとして入力レベルなどがあります。

この夢の先にあるもの

繰り返しになりますが、まだProfinanSSは夢の一歩を踏み出せたに過ぎません。売れなければそもそも進めません。自社としてファイナンスもできません。
しかし、どこまで夢を描くか。もちろん、これは当社の「戦略」の根幹であるので、赤裸々に語れるものではありません。
しかしながら、少しずつ機会を見つけて書いていきたいと思います。

The show will, at last, begin

世の中、メタバースだ、NFTだ、と騒がれている中、それらに比べると随分地味な夢かもしれません。
けど、僕にとっては、身命を賭してでも実現したい夢です。
一度は諦めた、けど捨てきれなかった、10年間焦がれた夢です。

今回のバージョンについて、トライアル期間にユーザーの声をもらい、当初のターゲットである「スタートアップ経営者」の方に役に立てるという感触を得られました。
また自社の事業計画も作成しましたが、自身が表計算ソフトで作ったものより粒度は粗いものの、10分で完成できました。自分でゼロから作ったら、1日は最低でもかかります。自分で言うのもなんですが、感動しました。

正直この先どうなるかわかりません。ここまで命がけで作っても、結局は売れなければ意味がない。売れるかどうかと命がけで作ったかどうかは関係ないのですから。

今まで、ビジネスパーソンとしては結構頑張ってきたつもりだけど、プロダクトを作る、という観点ではこんなに自分がポンコツか、と突きつけられる毎日です。

こんな暑苦しい思いをもってお届けするプロダクトです。

こんなに想いを込めてプロダクトを作っているなら
ちょっと期待してもいいかもしれない

少しでもそう思っていただけたなら…
嬉しいです。

人の足を止めるのは絶望ではなく諦観(あきらめ)。
人の足を進めるのは希望ではなく意志。

皆川亮二著『ARMS』

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普段は軽めにTwitterとかでもつぶやいてます。ネタ成分多めです。
https://twitter.com/yoshikbiz

*ユーグレナの名前をお出しすることについては、ユーグレナの出雲さんに事前にご了承を頂いております。アレオレ詐欺じゃないよ!

*余談ですが、ユーグレナで最初につくった事業計画。今思い返せば、設備投資シミュレーションができる結構複雑なモデルです。投資する設備投資の数を変数として、それによる売上インパクト、コスト(減価償却費等)、BSの固定資産、CFでの投資キャッシュフローが動くという、初めての財務モデルとしては超弩級にきつかったな、と。ちなみにこのときの設備投資シミュレーションは小売店展開型にも応用が効いて、M&Aのときにも使いました。


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