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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』鑑賞。『ふしぎの海のナディア』から数えて30年、庵野秀明監督への思いを振り返る。



2021年3月10日。
24年間待ち望んだエヴァンゲリオンへのピリオドを自分の胸に刻むために映画館へと向かい、長い間宙ぶらりんだったエヴァへの思いに、完全に決着をつけることができた。
そして、これまでの庵野秀明監督作品に触れて思うところ、感じたことをまとめてみようと思った。

公開中の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のネタバレを含みますので、くれぐれも『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』鑑賞後に、お読みいただけることを切に願います。



不完全燃焼、新世紀エヴァンゲリオン

1997年、夏。
新宿コマ劇場を出て天を仰ぐ。
「この釈然としない気持ちをどうしろっていうんだ?」
ひとりで映画館を訪れた自分に、その気持ちを共有したり、語り合う相手はいない。
新宿駅までの道を呆然と歩く。

片田舎から上京し、綱渡りのような生活の中、なにげなく深夜にテレビを観ていた。その時、テレビ東京で再放送されていた『新世紀エヴァンゲリオン』に、稲妻に打たれたように心を貫かれた。
たしか再放送は2回のタイミングで、1話から最終話までを、毎日3話か4話づつ放送されていたように記憶している。2回目の再放送開始時に、全話をビデオテープに録画した。
それから、生活がエヴァ中心に回り始めたといっても過言ではない。

テレビ放送は、最終話に向け唐突に本編が途切れる。録画したビデオを何度も何度も観返し、考察本も読み漁った。一体どこがこの物語の本当のラストなのか、テレビ放送分だけ観ても全く理解できない。せめて着地点だけでも、はっきり確認したい。
そんな思いから、
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』
の2本を待ち望み劇場まで足を運ぶ。
しかし、旧劇場版を観終え、庵野秀明監督に冷たく突き放された気持ちになり、行き場のない思いだけがいつまでも胸に残った。

庵野秀明監督をクリエイターとして認識したのは、NHKで放送されていた『ふしぎの海のナディア』が最初だった。
OP曲の映像を観ただけで衝撃が走った。カット割り、映像構成に一瞬にして心を掴まれる。とにかく放送開始10秒で、このアニメは絶対面白いと直感する。
無人島のくだりで、少し気持ちがダレて何話か見逃したが、後半、ブルーウォーターへの秘密に迫り、いきなり登場するN-ノーチラス号と、物語が加速するラストに夢中になった。ちょうど、高校を卒業したタイミングで迎えた最終回。進路も決まらず、何がしたいのか、何になりたいのか分からない自分に、『ふしぎの海のナディア』の最終回は、漠然とだが、
「こんな仕事をする人になりたい」
と、思わせる傑作だった。
物語もキレイに幕を下ろし、ものすごい余韻に浸ったのを覚えている。

そして、あれから自分がフラフラと風に吹かれるように生きていた間、着々と庵野秀明監督は、あの頃以上に衝撃的な『新世紀エヴァンゲリオン』という作品を形にしたことに心がざわつき、やり場のない焦燥感と、こんな作品をカタチにできる監督の才能に強い嫉妬を掻き立てられた。
とにかく、作品に盛り込まれている情報量が半端ない。各話タイトルのアイキャッチは、金田一耕助シリーズの市川崑作品を観ている映画ファンだと、ニンマリするようなオマージュだし、物語構成、エヴァに関わる謎、取り巻く世界の設定も、心理学、秘密結社、聖書の内容等、考察したくなるような散りばめ方(聖書ネタは『ふしぎの海のナディア』の最終回でも、同じ手法が取られている)。

庵野秀明が、やればできる監督であることは『ふしぎの海のナディア』で充分過ぎる程分かっている。予算や、時間的な制約がテレビシリーズをこんな中途半端なものにしたんだ。ちゃんと時間と環境さえ整えば、今回も納得いく形でエヴァの物語を着地させて、この盛り込み過多の情報と、大きく広げた風呂敷をキレイに畳んでくれるはずだ。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』で、完成していたエヴァシリーズに胸が高鳴り、どうエヴァを着地させるのか完結への期待が非常に大きかった。
その期待に対しての答えが、
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』
なのか? 納得がいかない。
当時、上映時期が同じだった『もののけ姫』の出来に比べて、かなりの不満が残った。

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』で取られていた手法から、この後、
「庵野秀明監督は実写映画の方に舵を切るのではないか?」 
と、感じいていたが、エヴァンゲリオンを無理矢理終わらせた後は、予想通り、実写映画『ラブ&ポップ』を発表。
『式日』には、まったく興味を持てず、『キューティーハニー』は、かろうじて観たが、自分の求める庵野秀明作品とは、遠くかけ離れた感が否めなかった。
それから、自分の中で『エヴァンゲリオン』という作品と、クリエイター『庵野秀明』は、どんどん色褪せて風化していくことになる。




ヱヴァンゲリヲン新劇場版公開


あの当時の10年は本当に長く感じた。
庵野秀明が、またエヴァをリメイクして劇場公開との情報が発表。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開の告知は、どこで知ったのだろう? もう記憶が定かではない。
自分は、すでに東京での生活に見切りをつけ、地元の大分県に戻っており、今更作品を庵野秀明監督がやり直した所で、自分の中でエヴァへの思いに決着がつく予感は微塵もなかった。
ただ、ルーティンを消化するような気持ちで劇場に足を運ぶ。
映像は、テレビ放送時に比べて格段と良くなった印象はあり、ヤシマ作戦で第6使徒のラミエルを倒すシーンは、かなり作り込まれた映像に少なからず興奮を覚えた。
だが、TV放送版をアップデートしたのみの印象はぬぐえず、なぜこのタイミングでエヴァをやり直すのか全く理解できなかったし、作品から新しいものは何も伝わってこなかった。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開から2年。
時折、目に留まる次回作の予告映像には、作品の仕上がりの良さが顕著にあらわれていた。期待していないはずの今回のエヴァのリメイクだが、劇場に足を運び、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観て度肝を抜かれる。
初っ端からかまされた! 新たに追加されたキャラクター『真希波・マリ・イラストリアス』の存在感に圧倒される。
テレビ放送時に、大人視点でエヴァに乗るパイロットがいなかった中で、非常にドライで割り切った印象を持つ搭乗動機、危機に直面した場合にも、余裕すら感じさせる行動など、キャラクターとしての尖り具合が半端ない。

また、テレビ放送版とは異なるストーリー展開。マルチバース設定を思わせる渚カヲルの登場とセリフ。TVシリーズのストーリーの枠を飛び越える物語の展開に否応なく引きずり込まれた。
そして、今まで強制的に選択を強いられていたと感じざるをえない碇シンジが、自主的に行動しているのを観るのは初めてではないだろうか?
東京での深夜再放送を観ていた頃の気持ちが蘇る。
本編終了後のテレビ放送を彷彿させる予告映像に
「観たかったのは、こんなエヴァなんだよ、待っていたエヴァが帰って来た!」
みたいにテンションが異常に上がった。
今、振り返えると昭和歌謡をフィーチャーした挿入歌が、他作品と比べると、やたらこの作品だけ浮いている気もするが、これも作品をカタチにする上での試行錯誤なんだろうと、目をつぶれるレベル。
それと、惣流・アスカ・ラングレーの設定が、新たに変更されたのには戸惑ったが、俄然、次回作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』への期待が高まる。

だが、庵野秀明が期待に応えてくれることは無かった。
エヴァンゲリオンを追いかけてきたファンの総意だと思うが、はやる胸を抑えて向かった劇場で、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観た後、
「またか…」
という気持ちがこみ上げる。
そして、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』本編よりも、その前に上映された『巨神兵東京に現わる 劇場版』の出来の良さに、
「なんでこっちで心揺さぶられるかな」
と、ため息が出てしまう。

この『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』公開後、庵野秀明監督のエヴァ制作への長い沈黙の期間が始まる。




エヴァ完全に沈黙、しかし目が覚める。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から完全に沈黙したエヴァ。
その間に庵野秀明監督は、『風立ちぬ』の主役の声優に抜擢。
「エヴァを終わらせないで、何やってんだよ」
という気持ちは少なからずあったが、宮崎駿監督の引退作品だし、作品自体には期待していたので、そこまでの反発心は無かった。
棒読みに感じられる庵野秀明の声も、通して作品を観るとそれ程違和感を感じない。『風立ちぬ』の作品自体も、よくまとまっていたと思う。
これが引退作品かという、若い頃に比べてちょっと力の落ちた宮崎駿に寂しい気持ちにさせられながらも。

次に発表された『シン・ゴジラ』の監督決定には、握った拳が震える思いだった。
「そんな暇があるなら、エヴァ終わらせろよ!」
この時は、さすがに強く反発を覚えた。
作品上映時、劇場に足を運び『シン・ゴジラ』を観る時の気分は、シャア・アズナブル。
「見せてもらおうか、庵野秀明の実力とやらを!」
腕組みをして観るかのように。当時を振り返ると、どんだけ上から目線なんだと恥ずかしく思う。
後から知ったのだが、全く同じセリフを漫画家の島本和彦さんが、応援上映開始前、会場全員で言ったとのことで、考えることはみんな同じなんだなと苦笑した。

上から目線で観始めた『シン・ゴジラ』に声を失う。
長い間エヴァへの自己評価が、激しい波のように上昇と下降の繰り返しの中で、庵野秀明の実力は充分過ぎる程知っていたはずなのに、そのことをすっかり忘れてしまっていた。
そして、傲慢な自分の姿を鏡で見せつけられるような気さえした。
何かしらの制作に取り組んだこともなければ、カタチにしたことのない、ただひたすらに消費する側の自分が、彼を批判できる立場なのかと。
そのくらい『シン・ゴジラ』の出来が良すぎた。
不思議と、『シン・ゴジラ』を観た後は、今まで衝撃を受けた庵野作品を観た時に感じる焦燥感や嫉妬をまったく感じなかった。特撮ファンとして、作品を何の気兼ねなく楽しめたし、次回作を心待ちにする気持ちにさえなった。作品の考察をしようとか、分析をしようと思う気も起こらなかった。

もっと謙虚になろう。
次回作のエヴァがどんなに時間がかかろうとも、どんな終わり方だろうと黙って待とう。そして批判も批評もせずに、全部ありのままに受け止めよう。この作品を観ることで純粋にそう思えた。


そして『シン・ゴジラ』鑑賞後、しばらく時が経ち、こんなネットニュースを目にする。

これを読んで、自分の知っていたつもりの庵野秀明というクリエイターが、ここまで会社の経営に気を回していたのかと驚く。
『ふしぎの海のナディア』製作時には、気に入らないシーンがあったら自腹を切ってやり直したエピソードがあるくらい、現場主義、作品主義で、経営や経費について、ここまで注意を払う人だとは思っていなかった。
経営者としても、庵野秀明という人物を見直すきっかけになった記事になる。

また、月日がさらに流れ、目にしたネットニュースで古巣のガイナックスに触れたものを読んだ。
こちらは、ひどく感傷的になったのを覚えている。

この記事を読んで、エヴァ劇場版の制作が滞るのも無理はないなと思ったし、庵野秀明監督は、本当に純粋で、優しい人なんだと印象を改めた。
庵野秀明という人物は、制作時のエピソードなんかで、仕事では神経質で圧迫感のある人なのかなと予想していた。
しかし、この記事の内容を読むと、非常に包容力のある仲間思いな人なんだという印象。こういう煩わしい事に巻き込まれずに、純粋に作品へ向き合う時間だけだったら、もっとエヴァの制作に集中できて、心を病む要因が軽減されていたのかなとさえ感じた。



2020年、ふと観た映画で、エヴァンゲリオンの受け止め方が変わる。


じわじわと、片田舎でもコロナの影響が出始めた2020年に、地元の映画館で監督の舞台挨拶有りの上映に参加する。
この作品、
「なぜ、庵野秀明監督はエヴァンゲリオンを制作したのか? 散りばめられた謎にはどういう意味があったのか?」
という長年の自分の問いに答えを出してくれた作品になった。
その答えは、自分が感じたものであって、実際そうなのかは分からないが、自分の中では腑に落ちるものだった。特に、作品を鑑賞後、監督が登壇された舞台挨拶上での、トーク部分でそれをかなりの手応えで感じた。

その作品は、自主制作映画なのだが、神戸で活躍している松本大樹監督の『みぽりん』という作品。


その時の、松本大樹監督が登壇してくれた、舞台挨拶のレポをまとめてあるので、興味がある方はどうぞ。
『みぽりん』未見の方は、鑑賞後に読まれることをお勧めします。
また、監督のこの作品を作った経緯や、詳細を舞台挨拶等のトークで触れる機会があれば、自分と同じようにエヴァの設定や、庵野秀明監督の制作の核になる部分への腑に落ちる手応えを感じられるかもしれません。


ネタバレになるのであまり触れられないが、この作品、伝えたいことやテーマが無いのだ。
ただ、ひたすら、監督が撮りたいシーン、自分の好きな映画のワンシーンや雰囲気を表現するために制作したもの。
もっともらしい、設定や人物像は、そういうものに興味があったり、人に伝えたいからカタチにしたのではなく、
「ただ何となく作品に取り込んで、時勢を風刺してみたかったから」
みたいな、
「こうすると映像作品ぽいでしょ?」
みたいなノリで制作、撮影されているのだ。

その話を聞いた時に、真っ先に思い浮かんだのが、テレビ放送版を制作した庵野秀明監督のことだった。
あの当時、『ゼーレ』だ、『アダム』だ、『リリス』だ、『死海文書』だ、『パターン青』だ、と庵野監督が設定したものを本気で考察していた。
「この謎を扱った意味が何かしらあるはずだ」
と、勘ぐって作品を観ていた。
庵野監督が出演したNHKの『トップランナー』という番組で、
「エヴァは哲学じゃなく衒学的なんですね。『知ったかぶり』というのが1番近い表現だと思うんですけれど」
と、語った回があったが、その言葉を本当に理解できたのは、この『みぽりん』という作品と、松本大樹監督の登壇トークを聞いた時だった。
奇しくも、この『みぽりん』を撮影した松本大樹監督の年齢と、エヴァの旧劇場版を制作した庵野秀明監督の当時の年齢は、同じだった気がする。

ロボットに少年が乗る動機としては、このくらいの設定が必要だよね。
人類の敵として現れるのは、神の使いぐらいの規模じゃないと緊迫感でないよね。
神の使いを敵にするんだから、聖書のネタもっと盛っちゃおうか? ネルフの設立の意味とか現実味が湧くもんね。
使徒の分別にパターンを設定するとカッコ良くない? 岡本喜八監督の『ブルー・クリスマス』好きだからパターン青とか、どう? 元ネタ分かる人が観たらニンマリだよね。
みたいな、大学のサークル、もっというと『DAICON FILM』時代と変わらぬノリと、帰納的なストーリー設定のために盛り込まれた材料が、制作側の意図を遥かに超えた影響力で視聴者に届いてしまったのではないだろうか。
あくまで、ストーリーのリアリティを高めるために、設定したはずの様々な材料が、フィクションを飛び越えて、あたかも現実世界の問題を代替するかのように視聴者に届いてしまい、
「いやぁ、そこまで真剣に哲学や、生き方を語るつもりでこのアニメを作ってないんだけど…」
という気持ちになったのではないだろうか? と推測した。
そのくらい時代にフィットする材料を盛り込む庵野秀明監督の手腕と、映像制作に徹底的にこだわった作品の質の高さがあったから、なおさら届きやすかったとも思う。

とにかく、2020年に、この映画『みぽりん』に出会っていなかったら、少なからず『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の全てを受け止める感覚ではなく、かなり考察寄りの鑑賞だったのではないかと今は思っている。



シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 感想

ここからネタバレが含まれます。
ご注意ください。

公開初日の月曜日に、ソワソワしていたが、水曜日に大事な用事があるために、初日の鑑賞はスルーし、水曜日のレイトショーで鑑賞することにした。
ここからはネタバレ有りの感想を。逐一感想を語っていたら、今までが膨大なまとめなのに、さらに膨大になってしまうので、強く感じた部分を抜粋してまとめたい。

「ユーロネルフ第1号封印柱」の復旧作業を行うヴィレ。それを阻止しようと、攻めてくるネルフのエヴァ。パリの上空で交戦する真希波マリ搭乗のエヴァ8号機。初っ端からのこの展開に、すでに涙を止めることができなかった。
『ふしぎの海のナディア』の最終回を彷彿とさせるパリ上空戦に、
「庵野秀明監督は最後のエヴァに、『ふしぎの海のナディア』までをも盛り込んでくれるのか!」
こんな仕事をする大人になりたい、と思っていた30年前の記憶が蘇る。エンターテイメント、サービス業としての庵野秀明監督に、この時点で100点をあげたくなるくらい、このパリ上空戦は強烈に印象に残る。
ナディアに通ずるエッフェル塔を使用した演出も流石です!
また、復旧作業を取り仕切る伊吹マヤのメンタルが強い!
物語中の時間経過を否応なしにキャラクターの成長で感じる描写。
そして、ツカミの真希波マリは鉄板のハメ手ですね。


次の第3村。ここでの描写は、今までのエヴァに無い物語の印象を受ける。
これまで、エヴァで一般人の描写は多少なりともあったが、ここまで主要キャラクター以外の人達を緻密に描いたのは初めてじゃないだろうか。ニアサーの後に、人々がどの様な生活を送っているのかをとても丁寧に描いている。
エヴァの戦闘により、家族を失ったとか、負傷したという言葉だけで受け止めていたものが、ちゃんとした映像で感じることができると、受け取る側のリアリティが全然違うなと思うパートでもあった。

そして、個人的にかなり嬉しかったのが委員長こと、鈴原ヒカリが生きており、ことのほか出番が多かったこと。
鈴原ヒカリ役の岩男潤子さんは、自分の出身中学校のOGになる。
まだ、中学在学中に『セイントフォー』として、学校を訪問してくれたことがあり、初めて目の前でみた芸能人は、中学校の体育館でのセイントフォーの4人だった。地元出身の声優なのだが、このところ表舞台で活躍する姿を見ることがほとんど無く、もはや岩男潤子・イマジナリーと化しているような… 言い過ぎました。
エヴァンゲリオンの最終作品となる今作で、アヤナミレイ(仮)に日常を優しく諭し、影響を与える重要な役を担っているヒカリの姿に、
「一生にひとつでも自分の魂を注いだ作品、キャラクターがあると、声優という仕事は、再び物語に呼ばれる宿命があるんだな」
と、感慨深い思いに浸った。

もう1点は、Qを観た時に、アヤナミレイ(仮)が碇シンジの記憶のない、別ロットであることで、テレビ放送時と似たような喪失感があった。だが、この第3村での丁寧な描写で、アヤナミレイ(仮)への感情移入を再構築することができたのは、庵野秀明監督含め、スタッフの皆さんの緻密で魂のこもった仕事のお蔭だと感謝してます。
そして、歳を喰ってしまった自分が、ウジウジといつまでも殻に籠もるシンジに対して、非常にイライラしていることに気付き、24年の年月を経て自分がシンジ目線ではなく、大人の目線でエヴァを観ていることを再確認する。その徴候は、おそらく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観た時に、真希波マリのキャラクターに爽快感を感じた時点で変化が始まったのだろうと自覚している。
緒方恵美さんのインタビューの記事にあったが、どうやら庵野秀明監督も、シンジ目線でエヴァという物語を語れなくなったことが分かり、何となく同じ側にいるのが嬉しかった。




碇シンジと式波アスカがヴンダーに帰還後、ネルフによりエヴァ13号機を使用して起こそうとされているフォースインパクトを阻止するため、発動されるヤマト作戦。その開始前にミサトが言う
「これまでの全てのカオスに、ケリを付けます」
のセリフは、庵野秀明監督が自分に言い聞かせるような印象を受ける。
今までのエヴァに、ちゃんと終止符を打つという強い意志を、葛城ミサトを代弁者として高らかに宣言しているようにも思えた。
ちょっと先に飛ぶが、ヴィレが碇ゲンドウを止めることができず、13号機が起動、もう為す術が無くなった時に、初号機に乗ろうと立ち上がるシンジの
「僕は僕の落とし前をつけたい」
というセリフにも、旧劇場版で広げた風呂敷をたたむことのできなかった庵野秀明監督の
「エヴァンゲリオンという作品を今回で本当に終わりにするんだ」
という覚悟を感じた。
ネルフを葬り去り、人類補完計画を阻止するための組織の名前が、ドイツ語で『意思』という意味を持つ『WILLE』なのも、Qの当時から庵野秀明監督に堅い決意が宿っていたのかなと勘ぐってしまう。
けじめをつける。決着をつける。落とし前をつける。
そう決意した庵野秀明監督の思いを受け取り、見届けるためにこの作品を観に来ているんだという思いで胸が熱くなる。

新2号機、改8号機のエヴァ戦に軽く触れると、式波アスカの奥の手が、裏コード999だったのは、松本零士世代としてもニンマリでした。

また、音楽に関して感じたのが、ヴンダーと2番艦と3番艦との交戦で流れる『惑星大戦争のテーマ』について。ワウのエフェクトがかかってるっぽいチャカポコしたギターのカッティングが、これでもかと主張するオリジナルを踏襲したアレンジ、あれは庵野秀明監督のこだわりなのか?
やはり、目の付け所、外せないと感じるポイントがかなり変わっているし、それが断然効いている。



ヴンダーの甲板に現れ、『ネブカドネザルの鍵』を使って人を棄てた姿を晒す碇ゲンドウ。テレビ放送、旧劇場版で考察を繰り返すように、謎解きをメインに観ていた過去の自分だったら、ガッツリ喰い付く場面なのだが、前述した『みぽりん』を観て、帰納的に設定したものなんだろうなと、もう謎を『記号』として受け取れる自分の思考に多少驚いた。
そして、13号機に乗り込みマイナス宇宙へと進む碇ゲンドウ。
再び初号機に乗り、自分の落とし前をつける覚悟を決めるシンジ。
碇シンジが初号機に乗り、父と決着をつけようとマイナス宇宙へ向かう前、ミサトとの別れのシーンで軽い抱擁をするのを観て、自分としてはエヴァが本当に終わるんだなという実感がこもる。
旧劇場版では、ミサトとの別れは『大人のキス』だった。それが今作では、シンジがミサトを労るような抱擁に変わる。
ミサトの背負っている苦しみ、辛さを自分にも背負わせてよと言えるようになり、ミサトの気持ちを汲み取れるようなった、旧劇場版でミサトが期待した大人になったシンジの姿をここで見せているんだな。本当に大人の階段上ったんだなと伝わってくる。
これは、もっというと作り手である庵野秀明監督自身の変化を観ているのでは? というような感覚にさえなる。きっと、そこまでの心境の変化をもたらしたものは、安野モヨコさんとのご結婚と、自分の手で会社の経営を始められたことが大きいのではと感じ入るシーンでもあった。


マイナス宇宙に突入して、『ゴルゴダオブジェクト』内での展開には、非常に驚くと同時に、なんとも言えない胸が締め付けられるような気持ちになった。
驚いたのは、初号機と13号機の戦闘シーン。
街のジオラマチックな建物が、エヴァ戦闘時横滑りになる。何が元ネタなのかさっぱり分からなかったが、庵野秀明監督がこんな不自然なシーンを意味も無しに入れている訳がない。初回鑑賞中には、この戦闘時のオマージュっぽい描写が何を元に表現されているのか分からなかったが、youtubeに上がってある岡田斗司夫さんの解説動画が、ものすごく分かりやすかった。

ウルトラマンエースかぁ…… 
観てたのが幼小すぎて、そんな細かい描写記憶にないなぁ。

胸が締め付けられた部分でいうと、ミサトさんの最期には、触れる必要はないでしょう。アニメ史、いや映画史に残る名シーンでした。

ゲンドウが2本の槍で起こした『アディショナル・インパクト』は、ミサトが命を賭し届けた第3の槍『ヴィレの槍』によって、その世界を書き換えるバトンがシンジへと渡る。
自分の中で、この展開でテレビ放送分含む過去作品をこんなに丁寧に拾い上げてくれるとは思っていなかったので、あの当時、宙ぶらりんだった自分の心を汲んでくれたような気持ちになり、涙腺の緩むシーンの連続だった。
涙腺が崩壊したのは、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』のラストを描き変えてくれたところ。
あの作品は、自分の心がどこに向かえばいいのか分からなくなるくらい、途方に暮れるラストだった。まさか24年かけて優しく着地できる場所を用意してくれたなんて、庵野秀明監督の『落とし前をつける』本気さを確かに感じた。



アスカ、カヲル、レイを送り出し、世界を書き換えようとするシンジ。そこで、母親の存在を感じてからの流れるBGMが『VOYAGER〜日付のない墓標』だったのは、庵野秀明監督の少し下の世代とはいえ、感慨深い。
昭和の時代、メディアというものに新しい風を吹かせたのは、間違いなく角川作品だったと思う。映画にも、アニメにも、多大な影響を与え、メディアミックスという言葉を創り出したのは、この時代の角川おいてほかにない。
その角川映画の『さよならジュピター』で使用された楽曲が、シン・エヴァンゲリオンの最も重要なシーンで流れる。
それは、自分が庵野秀明監督と同じ時代を共有していたんだという実感がわき、ノスタルジックな思いになった。


エヴァに別れを告げ、波打ち際で佇むシンジ。エヴァで迎えにくる真希波マリ。最期のエヴァが消滅し、ふたりが出会うことで一瞬に宇部新川駅へと世界が変わる。
シンジの声が変わる演出に違和感は無かったが、非常に寂しい思いが募る。
この気持ちが何なのか、自分では良く分からなかったが、約3週間後、なる程と合点がいく機会を得る。
前述の岡田斗司夫さんのシン・エヴァンゲリオン解説動画で、ラストの駅のシーンについて
「この時の真希波マリが安野モヨコの化身に見えてしょうがない」
と話していて、そう言われるとそうとしか思えなくなった。



ラストシーンの舞台の駅は、パッと見て何となく宇部なんじゃないかなと感じていた。やはり、監督自身の原点に帰る締めなのかと思う。悪い気はしないが、自分も歳を取ったなと感じる。
高校時代に、貪るように読んだ漫画に、六田登の『F』がある。
どうして、そんなに夢中で読んだのか、今は全然記憶に無い。最終話で、主人公軍馬の願い焦がれるスピードの向こうあるのが、自分の父親を超えたいという思いだと知るラストにガッカリした思い出がある。
こういう、出自や父親みたいなものがテーマの作品は、10代の頃は受け入れられなかった。
しかし、エヴァのラストとしては、しっくりくる。14歳の頃の庵野秀明監督を監督自身が迎えに行ったんだろうなと感じながら映画は幕を下ろす。


**** 追記 2021年4月2日 ****
この記事を書き上げた後で、岡田斗司夫さんのyoutubeチャンネルで、宇部新川と、第3村の考察をしていたのだが、これが凄い!

岡田斗司夫さんは、考察、着眼が非常にシャープだと改めて驚いた。
こんなに鋭い視点、映像作品への造詣の深さと、作品をカタチにできる技術は別モノなんだな。
また、『アオイホノオ』の山賀さんの描写が、あまりにもアレなので、ちょっと軽んじた印象を持っていたのだけども、あの当時の『DAICON FILM』は精鋭集団だったんだと、印象を改める。
偏見はいくない。



シン・エヴァンゲリオン鑑賞後


実は、これをまとめている時点で、シン・エヴァンゲリオン劇場版を3回観に行っている。その内の1回は舞台挨拶のライブビューイング。
ということは、そう、プロフェッショナル ~仕事の流儀~ も視聴済み。

打ちのめされました、プロフェッショナル。
特に、アングルを探す庵野秀明監督に、自分が映像に対して持っていた甘い考えを粉々に砕かれました。こんな凄い作品が、センスとか才能とかで、チャチャっとできる訳がないんですよね。
そして、作品至上主義という言葉。もう、胸に刻みます。

ここ3年程、「面白い作品というのは、誰が作っているのか。 脚本? 監督? 役者?」という問いの答えをずっと探し続けていた。その答えがプロフェッショナルで分かった気がした。
やはり、映画は監督のものだ。それも編集の権限を持っている監督のもの。
プロフェッショナルの番組中で、声優の方々のアフレコにのぞむシーンがあったが、庵野秀明監督は揺るぎなく自分の作品のキャラクターに対して、セリフの正解を持っていた。
その演技は違う、何かが足りない、このキャラクターはそういう風には言わない…
監督の中に、その正解が見えてなければ、作品というものの方向が決まらない。自分が監督ならば、ベテラン声優の皆さんの演技に圧倒されるばかりでブレブレの、どこに向かう作品なのかというのが分からなくなる自信がある。威張ることではない。

それを裏付けるように、舞台挨拶で赤木リツコ役の山口由里子さんが、
「ずっと、ミサトと一緒にいたので、お別れの時のセリフが泣かずに言えるか心配になった。3パターン程録って、1番あっさりしたものを監督は採用していた。感極まったパターンに対して、監督が『リツコだから、それは無いです』とはっきり言われました」
というエピソードがあった。
声優の感情の乗った演技に翻弄されることなく、ちゃんと自分の生み出したキャラクターを把握している。その演技の正解、不正解をジャッジできる。その庵野秀明監督の姿に、作品は監督のものだなと確信に近い気持ちを持つことが出来た。自分の中ではかなりの収穫でした。

そして、ライブビューイングで視聴していた舞台挨拶の最期に、緒方恵美さんが、
「ラストシーンでシンジの声が自分じゃなかったので、今でも自分はエヴァの中にいる気がする。みんなを送り出した後で、見送ったまま残っている感じ…」
みたいな話しをしていたが、まさにそれで、今までずっと観てきた碇シンジは、やはりエヴァと一緒に向こうの世界にずっといる気がしたし、感じていた寂しさはこれなんだなと改めて思った。
まるで、幼少の頃に観た、銀河鉄道999の鉄郎を見送るメーテルのような、あの作品を観た時と同じ様な、寂しいような切ないような気持ちが残っていた。
その寂しさの理由を言語化する緒方恵美さんは、凄いなと感じる。
声優さんというのは、自分のあてるキャラクターのより深部を理解し、原体験として生きているんだなと思わされた最期の挨拶でした。

庵野秀明監督、スタジオカラーの皆様、声優の皆様、
エヴァンゲリオンに携わり、この最期をカタチにしてくれた全ての関係者の皆様に感謝します。
素晴らしい体験を、思い出をありがとうございました。
そして
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。


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