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疫病と救済 本庄総子

古代において疫病が発生した時、病人はどのように扱われたのでしょうか。
当時の諸史料によれば、広く行われていたであろう近親による看護も、疫病発生時においては当たり前ではなかったようです。
『疫病の古代史―天災、人災、そして―』の著者、本庄総子先生によるエッセイは、コロナ禍など今日の感染症対策をも考えさせられます。
ぜひご一読ください!

 疫病という現象に強い関心をもつようになったのはいつ頃だったか、記憶は定かではない。あるいは小学校に入学したばかりの頃、学校の保健室に、エボラ出血熱(エボラウイルス病)のポスターが貼られているのをみた時だっただろうか。センシティブな画像への配慮などほとんどない時代のこと、凄惨な臨床写真が並んでいた。病名がまた怖い。さらに、それが伝染する病であり、治療法はまだ存在しないという極めつけの事実まで書き添えられていたのである。

 いま思えば、当時は新興感染症への認知がようやく広がりつつある時期だったのだろう。1980年にWHO(世界保健機関)が天然痘の根絶を宣言し、医学の完全勝利という明るい未来が夢見られる一方で、その未来予想を裏切るように、新興感染症の報告が途絶えることはなかった。一時は社会問題として大きく取り上げられたエイズは特に有名である。幼い日の私が目にしたポスターは、恐らくそうした状況下において作成された、啓発のポスターだったのだと思う。

 この強烈な体験のお蔭で疫病への関心は比較的高かったが、だからといって、疫病の歴史を研究対象とするつもりもなかった。私が専門とする日本古代において、疫病関連の史料は、その発生とこれに対する政府の対処を淡々と書き連ねただけのものが多く、歴史的変化を辿りにくい。そうかと思うと、疫神だの御霊だの、どうにもつかみ所のない難しい問題がたくさん出てきて、とてもじゃないけど手に負えない、というのが率直な印象だったのである。その点、法制史料は意図するところが明快で扱いやすい。私は制度史にのめり込んでいった。

 転機はウィリアム・マクニール氏の古典的名著『疫病と世界史』との出会いだった。佐々木昭夫氏による邦訳(中公文庫、2007年)があるので、日本人にもアクセスしやすい。

 本書は、過去に疫病が発生した事実と、その疫病がもたらした惨憺たる社会変化を、ただ羅列するに止まるものではない。疫病の発生の原因となる社会の仕組みへの深い洞察が伴っている。疫病を単なる一過性の「事故」として扱わない手法は新鮮で衝撃だった。それは、制度という枠組みから疫病の姿を捉え直すことも可能ではないかという期待を抱かせてくれるものだったのである。

 今回、拙著『疫病の古代史―天災、人災、そして―』では、日本古代における疫病発生と密接に関わる社会構造上の特徴として、王都への人口の集積、食料生産体制、思想・文化という3項目から説明を加えた。最後の思想・文化の部分は、私が従来ほとんど挑戦してこなかった分野であるため、なお追求すべき点を多く残している不十分なものだが、病人の看護と遺棄という正反対の現象が、どのような思想的葛藤を伴いながら併存したのかを描写することに努めた。

 病人の看護は、その社会の弱者救済がどのように実現されていたのか、という課題と切っても切り離せない。日本古代史においては、社会の圧倒的多数を占める弱者たちが、どのように相互扶助の単位を形成し、機能させていたのか、という問題をめぐって、さまざまに議論されてきた。論者によって差異はあるものの、古代という、国家による扶助が十分に行き渡らない時代に、近親・近隣間での相互扶助が重要であったという見方は共通認識であろう。そのため、病人看護の主体として近親などが高く評価されるとともに、病人の遺棄は近親なき者、身寄りのない者の悲劇として描かれがちであった。

 確かに、平常時であれば、近親による病人看護は広く行われていたであろう。しかし、こと疫病発生時においては、近親看護という基本的相互扶助が往々にして崩壊した。古代の諸史料は、疫病に倒れた近親を家に残したまま他所へ避難する人々の様子を活写している。残された病人は、水の一滴すら病床に運んでくれる者がないまま餓死することになったという。無論、感染した近親を看護する者もいたであろうが、それは当たり前のことではなかったのである。

著書『疫病の古代史』の書影


 こうした状況において政府が持ち出したのが、儒教的な近親規範と、仏教の応報観念であった。前者は近親者は助け合いなさいというもの、そして後者は、良い行い=看護をすれば良いことが起こるものなのだから、感染を怖れる必要などないというものである。人々が愚かだから感染を怖れて病人を見捨てるような惑いに陥るのだと断じてもいた。

 はじめ、この政府見解を見た時には首を傾げた。近親者の遺棄は苦渋の決断でもあったろう。防疫に限界のあった時代である。疫病から物理的に離れる以上に有効な選択肢があっただろうか。そんなことを考えていると、政府が人々を愚民と断じたのは、ひどく一方的な綺麗事であるように感じられたのである。

 しかし、勤務校を同じくするドイツ史がご専門の渡邊伸先生より、中世ヨーロッパで大流行したペストについていくつかのご教示をいただくうちに、少し異なる考え方もするようになった。

 このペストの悲惨さを伝えるための定型表現として、たとえば次のような史料が残されている。

息子は父を見捨てた。そして夫は妻を、妻は夫を見捨てた。……多くの者が見放されてそのまま餓死した。(石坂尚武〈編訳〉『イタリアの黒死病関係史料集』〈刀水書房、2017年〉第六章マルキオンネの『フィレンツェ年代記』)。

 これは古代日本で疫病が発生した時に現出した光景とまったく重なり合う。このほか独り死を迎えようとする人々が、自分はまだ生きているといって救いを求める衝撃的な言葉も伝えられている。

 この地獄のような状況を前にして、敢えて病人看護を肯定する倫理観は単純な良心だけでは成り立たない。この倫理観は、自らの身の安全が必ずしも保証されていない中で生じるものであるだけに、そこには葛藤も伴う。それでも疫病発生時に、敢然と病床に立ち会おうとする人々は存在した。現代のコロナ禍における医療従事者の方々のご尽力が記憶に新しい。

 中世ヨーロッパの場合、キリスト教の司祭が、死に立ち会うという職業上の必要により病人と接触していた。そのため彼らは疫病被害にも遭いやすかったとみられている。医師の職業倫理は発展の途上にあったが、彼らもまたしばしば疫病の犠牲となったという。

 日本古代の場合、医師の職業倫理に相当するものがあった様子を窺うことは難しい。彼らが医師としての教育課程で身に付けるのは医療の理論と技術であった。天平8年(西暦736年。天平の大疫病が一時的収束を迎えていた時期)の正税帳という財政帳簿では、国医師という医務官が任国である薩摩国を頻繁に巡回しているので、職務上の必要から病人に接触することは多かったのかもしれない。

 では、日本古代において、身の危険を顧みず、他人の看護をした人々はいなかったのだろうか。例えば、政府が褒賞を出して看護を推奨することはあった。拙著のなかでは他にも憶説を述べているが、その当否は読者諸賢にご判断いただきたい。

(ほんじょう ふさこ・京都府立大学文学部准教授) 


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