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「賃銀」から「賃金」へ 高島正憲

労働に対して払われた「賃金」の最初の記録は正倉院文書に出てくる下級官人のもので、建築労働者へ払われたものも含まれます。また、私有財産が認められていた中世や近世の「賃金」の支払い方法は、当時の社会体制により異なってきます。
歴史史料のなかで「賃金」という用語をさかのぼることができるのは、1916年の工場法施行令とされます。このエッセイでは、「賃銀」についてもふれながらその起源の奥深さを味わってください。

 拙著『賃金の日本史』がそろそろ刊行される八月半ば、友人と酒を飲みながら話していたとき、書名の話題になり、「賃金と日本史ってまったく違う次元のワードだから、それを組み合わせるって、インパクトがあってカッコいい」と言われた。実をいうと、前著が『経済成長の日本史』だったので、二冊連続で「〜の日本史」は避けたかったというのが本音であったが、いまは、相容れない言葉が同居しながらも格闘しているような雰囲気をかもしだすその書名を、すごく気にいっている。

 そもそも、我われがあたりまえのように日常のなかで使っている「賃金」という言葉はいつから日本で広まりだしたのであろうか。書籍や論文、雑誌記事、ウェブなどいろいろと調べていると、やはりというか、なぜ「賃銀」ではなくて「賃金」なのかと同じような疑問を考えている人は多いようである。

 濱口桂一郎「賃銀と賃金」(『労基旬報』二〇二二年六月二五日号)では、「賃金」という表記は戦前から存在しており、特に法令上はその表記の方が多かったとして、法制史上の事例の考察と、そこから導き出される「賃銀」から「賃金」への移行についての仮説が紹介されている。たとえば、 一九三九年に公布された労働賃金を抑制する賃金統制令や賃金臨時措置令は、法令名そのものがまさに「賃金」であるし、それら法令は一九三八年の国家総動員法にもとづいたものだが、その本文にも「賃金其ノ他ノ従業条件」(第六条)という表記が確認される。また、法令上で「賃金」をさかのぼることができるのは一九一六年の工場法施行令で、条文中に「賃金」という表記が二〇箇所以降も確認することができ、それより五年前の一九一一年に公布された肝心の工場法には「賃金」が見当たらないことも指摘されている。

 よく知られているように、労働者保護の法令を作成する機運は、工場法制定に先立つこと数十年前の明治期半ばよりあったが、企業・財界よりの反対や政府の調整不足などで法案が作成・提出されるも長い間制定にはいたらなかった。それらの草案では「賃銀」や「賃銭」の表記となっていたが、他方、民法ではすでに「賃金」という表記がされており、またその定義するところも家賃、債権、雇人の給料など複数の意味で書かれるなど、用語としてはやや混乱した状況であったようである。その後、工場法の制定・施行過程で(意味が異なるとはいえ)民法に明記された「賃金」の表記が使われるようになり、やがて戦時下の統制関係の法令によって「賃金」の使用が確立した、という仮説となっている。

 実際に、国会図書館が公開しているウェブサイトの日本法令索引で検索してみると、改正や施行規則など関連するものも含めれば、敗戦までに出された法令で「賃金」と書かれているものは一五件ある。一方の「賃銀」は一九三四年の賃銀調査規則しかヒットしない。このサイトは一八八六年二月の公文式施行以降の法令を対象としているが、それ以前の一八六八年の大政奉還までさかのぼって検索できる、同じく国会図書館の日本法令索引〔明治前期編〕で検索してみると、「賃金」の検索結果は一六件も出てくる。しかし、その法令名をよくみてみると、新橋横浜間汽車賃金表ヲあかツ(一八七二年)や回漕かいそう賃金並貨物回漕規則(一八七八年)とあることから、この時期の法令上の「賃金」は労働報酬ではなく、乗車賃や運送賃の意味で使われていたことがわかる。これに対して「賃銀」の検索結果は八件で、浅草御蔵納人足おくらおさめにんそく賃銀割増(一八六八年)のように、我われが現代で使う意味と同じであることがわかる。

 別の検索もしてみよう。国会図書館デジタルコレクションで官報を検索してみると、「人足賃金」のように今日的な意味での「賃金」も明治期前半に出てはくるが、この頃は乗車賃や運送賃の意味で使われていることの方が圧倒的に多い。労働報酬としての意味が増えていくのは一九二〇年代以降となっている。これは日本の労働問題が深刻になっていく時期に一致しており、社会が賃金労働というものを意識していく過程と決して無関係ではなかったはずだといえるだろう。

著書『賃金の日本史』の書影

 他方、「賃銀」はどうかというと、一八八三年七月二日発行の官報の第一号から登場する。その意味するものは当然、他の検索結果も含めて労働報酬である。興味深いのは、戦後になっても官報に「賃銀」という表現は出てくるものの、一九三〇年代は前半二七四冊/後半二三八冊だったのが、一九四〇年代は前半八九冊/後半一六冊となっているように、明らかにその出番は少なくなっていることである。「賃金」は(別の意味も含むが)、一九三〇年代前半一九一冊/後半二三三冊、一九四〇年代は前半五九五冊/後半二三一冊であった。官報の発行回数に大きな違いはないので、やはり戦時期から戦後にかけての時期に「賃銀」から「賃金」への移行があったということになり、先行する仮説とも整合的である。

 そうなると、さらにさかのぼって、「賃銀」はいつ頃から使われだしたのだろうかという新たな疑問が生まれる。官報の記事からもわかるように、明治期前半にはすでに「賃銀」という表現は定着していたと思われるが、類似の労働報酬をあらわすものとして「賃銭」「傭銀」や「賃」という表現もしばしば登場する。

 拙著『賃金の日本史』で引用した資料では、近世後半の安政期の幕府法令や民間資料のいたるところに「賃銀」という表現が多数確認できる。それ以前では、『徳川禁令考』に「日用人足賃銀之定」(一六五八年)という日雇賃金を定める法令があるなど、一七世紀半ばまでさかのぼることができる。とはいえ、他資料では賃料としての意味も確認できるし、「駄賃銀」という運送賃と運搬人足賃の中間のような表現も一七世紀前半に確認できる(『東大寺文書』)。

 中近世移行期の一七世紀初頭に編まれた『日葡につぽ辞書』には「賃」「手間賃」があっても「賃銀」は見あたらない。また、実質賃金の推計に利用した中世の賃金関係資料でも「作料」「手間」といった表現となっており、それは近世資料でも確認できる。実際、中世の職人への報酬は銭や米であって、銀が使われるようになったのは近世に入ってからである。そのように考えると、具体的な年代までは特定できないが、労働報酬の支払い手段として銀払いが一般化した近世前半の一七世紀に「賃銀」はあらわれた、というのが本稿での一応の結論となる。

 ところで、「賃銀」は二一世紀になっても実は存在していたりする。マルクスの代表作の一つであるLohn, Preis und Profitの岩波文庫版の邦訳は、今でも『賃銀・価格および利潤』(長谷部文雄訳)なのである。もちろん、岩波文庫版の初版は一九三五年なので、その当時は「賃銀」が市民権を得ていた時期であり、そもそも再版を重ねているとはいえ翻訳そのものは不変なのだから、当然といえば当然である。しかし、同書の他のほとんどの邦訳本は「賃金」となっているなか、かつて賃金が数百年もの間「賃銀」であった時代の残照を、いまもみることができることに、歴史的な特別な何かを感じるというのはやや大げさな表現だろうか。

 当初は依頼された三○○○字を埋めることができるのだろうかと不安に思いながら書いていたが、思いのほか筆が進んだためか調子にのって書いてしまい、紙幅が尽きてしまった。別稿でより深く考察をしてみたいと思う。

(たかしま まさのり・関西学院大学経済学部准教授) 


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