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宗教・思想・文化への向き合い方 上野大輔

 吉川弘文館から刊行中のシリーズ『日本近世史を見通す』(全7巻)の内、第6巻『宗教・思想・文化』(以下、本巻とも記す)の編集を、小林准士氏と私で担当した。以下では、編集にあたっての問題意識や宗教・思想・文化に関する私見などを提示して、読者の皆さんへの案内としたい。

 まず、日本近世史研究において宗教・思想・文化は、やや特殊な分野のように見なされているかもしれない。そもそも宗教・思想・文化の定義づけについても、これまでの研究では曖昧なケースが少なくない。議論の前提として、主要な用語に関する、ある程度の定義づけは必須であろう(もちろん、史料を読んで検討する中で、定義内容をその都度、見直してもよい)。

 ここでは「宗教」を、超自然的な存在と人間との関係と見なしている。今日の科学において客観的な自然現象とは見なしがたいような事物が、さまざまに説かれ、それと関わる人々の組織が形成され、社会的な影響力を行使してきた。近世日本においては仏教や神道などが典型例である。一方「思想」とは、人間や社会などに関する一定のまとまった考えを指す。また「文化」とは、狭義では人々の知的営みによって生み出された学問・芸術などを指し、広義では人々の生活様式を指す。よって、広義の文化史は、身体をもつ人々の関係性に即して時代を全体的に把握しようとする社会史と重なってくる。

 本巻(第6巻)は、右のような意味での宗教・思想・文化を扱うものと、私は理解している。ここで重要なのは、広義の文化概念に媒介されることで、宗教・思想・文化が単なる並列ではなく、ひとまとまりの体系性を実現しうることである。そしてその体系性は、政治や経済などの文化領域をも巻き込んでゆくのである。言い換えれば、本巻はおまけのテーマ史ではない、ということである。宗教・思想・文化(狭義)などを組み込んで人々の営みを捉えようする、広義の文化論である。編者の小林氏による本巻のプロローグにも、そのような立場が示されていよう。

 とはいえ、読者の皆さんは疑問に思われるかもしれない。本シリーズは第1~3巻が政治史・対外関係史を軸とする「通史編」であり、第4~6巻で各テーマを扱う構成となっている。第4巻は地域史であり、村や町に関する大量の史料から具体的かつ詳細な議論が可能となる近世史の特色を体現している。続く第5巻は身分論であり、身分制社会として総括される近世の中核的テーマに他ならない。そして残りの要素を補ったのが、第6巻なのではないか。以上のように思われる方も、いらっしゃるかもしれない。

 しかし、本巻の編者の意図は異なっている。政治史・対外関係史をもって本来の意味での通史(総合的歴史)とし、地域史や宗教・思想・文化史などと区別すること自体を見直したいと考え、広義の文化論として宗教・思想・文化(狭義)をなるべく横断的・体系的に捉え、近世史全体ともつなげられるようにしようとした。つまり、本シリーズの第1~5巻の議論ともつなげられるようにとの意図で編集に当たった。個人的にも、分野横断的な方向性を持つ社会史研究を重視する立場から、それを推進しようと試みた。よって本巻は、仏教史・神道史・儒学史……のような分野別の構成をとっていない。

『日本近世史を見通す⑥宗教・思想・文化』の書影

 より具体的には、林晃弘氏(第1章)に近世的な政教関係の形成について執筆いただくことで、政治史との関連づけを狙った。朴澤直秀氏(第2章)による仏教教団・宗派の論考や、梅田千尋氏(第3章)による民間宗教者と神社の論考は、身分論・地域史の成果と関連が深い。学問流派と教育・教化に関する小林准士氏(第4章)の論考や、民衆の思想・信仰に関する上野(第5章)の論考は、宗教・思想・文化を横断的に関連づけようとしている。また、鍛治宏介氏(第6章)は、書物文化と医療を地域の実態に即して捉えており、原淳一郎氏(第7章)は、寺社参詣を広義的な文化論として取り上げ、議論の幅を広げている。佐竹朋子氏(コラムⅠ)は大名にとっての文芸を問うことで、単なる庶民文化ではない近世文化への理解の深化に寄与し、石上阿希氏(コラムⅡ)は、春画を近世社会に位置づけて論じている。

 対象とする時期は著者によって差があるが、第6巻全体としては近世前期・中期・後期の特定の時期が欠落しないよう、バランスを考慮した。結果的には、やや中後期寄りとなったが、林氏の論考は前期、梅田氏と上野の論考は前期から中期、その他の論考・コラムは中後期が、それぞれメインとなっている。

 近世の宗教・思想・文化を、一巻分の限られた紙幅で扱う。それも単なる分野史にとどまらないものにするという、いわば難事業に取り組んだ。紙幅が許せば、さらに声をかけたかった研究者もいる。一方の政治史・対外関係史は三巻分あるので、かなり余裕を持って細かく分担執筆できる(もちろん、分担するテーマ・時期の区切り方やつなげ方、全体のバランスなどは、複雑で難しい課題となる)。その意味では、本巻は一人当たりの扱うテーマの範囲が広くなるはずである。だが実際の論考・コラムを読むと、広く浅い概説風にならないような、個別事例にこだわるスタンスが、必ずしも意図せずに共有されたようである。いずれも、史料に示される具体的な事例を重視しつつ、それらの検討を通じて体系的な社会像を構築してゆく方向性をもっていよう。

 また、本巻が他巻によって補われ、架橋される形ともなった。例えば、第1巻第5章(木村直樹氏「島原の乱と禁教政策の転換」)、第2巻第6章(小関悠一郎氏「「改革」文化の形成」)・第7章(吉村雅美氏「学問の場でつくられた対外認識」)などは、本巻のテーマとも密接に関連しており、政治史・対外関係史も限定的な分野史として完結するものではないことを示唆していよう。第4巻第4章(岩城卓二氏「「勧農」と「取締」の幕末社会」)、第5巻第7章(塩川隆文氏「芸能者」)・コラムⅡ(町田哲氏「行き倒れ遍路からみた近世」)なども、本巻との関連が深い。本シリーズの「刊行にあたって」にも示されるように、通時的経過を示す「通史編」(第1~3巻)と重要な研究動向を取り上げる「テーマ編」(第4~6巻)の全体を踏まえ、政治・経済・宗教などの人々の多彩な営みを視野に収めることで、近世史は立体的で豊かな像を結ぶことになるだろう。

 言うまでもなく、以上は一編者を務めた私の見方であって、他の編者・著者の見方が完全に一致することはありえないはずである。歴史学は、一人ひとりの人間が学問的に過去と向き合う実践であり、歴史像は本来的に多様性を持つ。それぞれの実践を支える共通の概念・枠組みがあることで、多様な歴史像の共通性・関連性が明確となり、議論を共有できる可能性が高まる。本巻の各論考・コラムも個性的だが、近世・宗教・思想・文化といった概念・枠組みによって、互いに関連づけて把握することができる。この点、編者の小林氏もプロローグで各論考・コラムの関連性を論じている。こうした、それぞれの歴史学実践とそれらの共有化は、個性を持った人間が互いに関係を持ちながら生きてゆくことの一基盤をなすだろう。あとは読者の皆さんが、それぞれの関心から本シリーズに接し、何らかの知見を得ていただければ幸いである。

(うえの だいすけ・慶應義塾大学文学部准教授) 


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