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1000円カットの夜

保育園のそばに、1000円カットの店がある。
長髪を後ろでひとまとめにした男性がひとりでやっていて、ママ友から評判を聞き、6歳を連れて行った。

1000円カットなるものはすごいのだ。シャンプーもせず、いきなり切る。そして10分ほどでカットが終わると掃除機のようなもので頭を吸い取られ、あっという間に終わる。

呆気に取られつつお金を払うと、
「飴かラムネ、いる?」
お兄さんがふたつの瓶を6歳に見せ、「飴はコーラ味だよ」と言った。6歳はラムネを取った。炭酸はまだ飲めないのだ。

外へ出て、6歳はラムネを口に放った。

10分ぶんのカットで整えられた髪は、ちょっぴりいびつだ。わたしは妹が美容師なので、表参道に行きさえすれば子どもたちも自分も丸ごと切ってもらえるのだが、保育園の帰りにふらっと寄れるのが楽で、まあこんなもんと思いながらそれから何度か通った。

何度か行くうちに、わかったことがあった。
まず、いつも並んでいる。行く時間が夕方だからというのもあるけれど、2〜3人はたいてい並んでいて、おじさんや兄弟連れのパパ、おじいさん。女性は見たことがない。

並んでいるから30分は待つことになり、予約できる美容院を近くで探そうかなあと思ったこともあるのだが、なんかそれも面倒だった。自分はちゃんと毎月欠かさず予約してバスに乗り、隣町まで美容室に行くくせに、だ。子どものこととなると適当なのがわたしらしい。

もうひとつわかったことは、お兄さんのカットが丁寧だということ。妹によると、カットは10分1000円くらいという相場が決まっているらしい。1000円カットはもう1000円という値段が決まっているんだから、なんとかひとり10分でカットするしかないわけだ。

お兄さんはその10分を最大限に使う。一度ざっと頭の形を整えて切り、それから少しゆっくり耳の周りや襟足を整えていく。バリカンを使い、首のうしろをきれいにして、そして最後にもう一度髪のボリュームを調節していく。

切った髪を掃除機で吸ったあとも、ちょっと気になるところに鋏を入れ、そして終わる。最初はなんかずいぶんぱぱっと終わるもんだなあ、なんて思っていたけど、10分には10分なりのやり方があることがわかった。そのうえ子どもには飴やラムネをやり、次の人を呼ぶあいだのものの何分かで会計と消毒と髪の掃除をするのだ。

行くたびに惚れ惚れしてしまう、流れるような手つきだった。

それから、子どもを特別子ども扱いしないところも好きだ。お兄さんはカットしたあとに「どうですか」とわたしに聞くのだが、そのあとで必ず6歳にも「これでいい? どうかな」と聞いた。

おじいさんには、「この間と同じ感じでいいですか?」とか、中学生には「おしぼりいる?」とか。決して口数は多くないけど、大切なことはちゃんとそこにある。親しげで、でも距離がある、その感じ。

6歳は3回目くらいのときにコーラの飴に挑戦し、はじめてコーラ味のものが食べられるようになった。炭酸はまだ飲めないから、本物のコーラよりもコーラ味の方をはじめて知ったのだった。

年末は、いつものように店に行ったらあまりにもという混雑で、店の中では足りず、外にまでたくさんの人が並んでいた。さすがに2時間以上かかりそうなので、まあ年明けでいいかと思っていたら、なぜかいつ行っても休みの看板がぶら下がっている。するとあるとき、「腰痛のため今日も休みます」という新しい札がさがった。

腰痛かあ。結構悪いのかなあ。だいぶん開かなくなってしまうかもしれないね。6歳とそんなふうに話し、仕方なくその少し先にある別の1000円カットの店に行ってみることにした。

ところがその店がもう。批判を書きたいわけではないから飛ばすけど、店を出るまでなんとか我慢していた6歳が大粒の涙をこぼしてぽろぽろ泣くほどのことがあり、わたしももう堪えきれないほど腹が立った。

わたしたちは大きな傷を抱えて、店を出たところで立ち尽くした。全然知らない店だったのに、ただの思いつきで連れてきてしまったことを謝り、6歳は泣いた。切ったばかりのはずなのに、髪の毛はぼさぼさだった。

ひとしきり泣いたあと、6歳が、
「コーラの飴を買いたい」
と言った。

そうだ、そうしよう、と、わたしたちはセブンイレブンに向かった。今は会えないお兄さんのやさしさを、きっとコーラ味を舐めたら思いだせる。なんだかもう縋るような思いで飴を探し、でもコーラ味はグミしかなくて、それでもいいよねって言って買って、ふたりで食べた。

帰りにお兄さんの店の前を通ると、やっぱり看板はclosedだった。

早く腰が治るといいね。
そうだね。
わたしたちはなぜか店に向かって拝んで帰った。

しばらくして、店が開いた。
予定が合わずなかなか行けなかったり不定休になったりでタイミングが合わなかったけれど、今日やっとお兄さんのところに行けた。

やっぱり3人ほど並んでいて、45分ほど待ったけれど、自分の番になると6歳はうきうきした足取りで椅子に座り、じいっとお兄さんの手を見ていた。

わたしも見ていた。そうか、子どもが動いても危なくないように、あんなふうにして切っていたんだなとか、顔についた髪をいつも最後に拭ってくれていたんだったなとか。

「飴とラムネ、どっちがいい?」
お兄さんが瓶を出すと、6歳は迷わず「飴!」と言う。
「コーラだよ?」
お兄さんはていねいに確かめてくれる。
「うん、大丈夫」

外へ出ると、6歳は飴をぽんと口に放った。

まっくらすぎるほどまっくらで、首のうしろが少し寒そうだ。自転車に乗せ、まるで自分が髪を切ったみたいにすこやかに、家へ向かう。風がコーラのにおいを運んでくれる。ただただそんな日常のなかの出会いが、いとおしい夜だった。

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