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一本柳

岩内の全盛時代に花柳界で全道的に名声を謡われた代表的なもので、妓楼村上楼と料理店金精楼があった。

写真:やま久 大蒲焼「金精楼」
明治29年 北海道岩内港市街明細地図より
岩内町郷土館


全盛期とは、明治時代の頃だ。
その当時からずっと、時代の変化とすれ違う人たちを見守ってきた「一本柳」があります。

岩内の歴史散歩をしていると、石碑がたくさんあって所々に「まちの歴史」に触れることが出来るのだけど。
普段は、通りすぎて、気付かないものである。

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明治の中心街青橋(現:御崎付近)
明治は岩内の鰊全盛時代で、その頃、青橋の通りは、商家、妓楼入り交じって、殷賑を極めていましたが、明治二十三年の大火後、娼家は薄田遊郭に移転となった −明治の中心街青橋 石碑の裏−

この辺り、昭和18年の字名改正まで「橘町」という地区で、【紅き灯を恋い三三五五夜な夜な集まる若い衆が、格子の外に立って生き花をながめる】というので橘と名づけたという。

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北海道信用金庫の玄関の左にある「一本柳」
この一本柳、昭和47年に岩内町有形文化財に指定された天然記念物。

これは薄田橋から中央通りをずっと現在の福島印刷のところまで川が流れており(川は此処から右へ曲がって更に左折して水産物検査所の横を通って海に注いでいた)。川の片側に枝垂れ柳が並木になって植えられ、川巾も2メートルばかり、水も昔は綺麗で、青い空が流れに映り、そこへ柳の影がゆらいでいた名残りなのである。
「余滴」 佐藤彌十郎より

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明治29年 北海道岩内港市街明細地図。

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中央通りに川があった!!!

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橘町にあった娼家が、明治23年の大火で薄田橋より山側へ移転して、新廓から中央通りへ五町程の間にあった柳並木の名残りの一本の柳なのだ。

当時。遊女屋があり、その前辺りから始まっていた。
これから廓内に情緒を添えて薄田橋を渡った左たもとにあったのが「見返り柳」

当時、遊女は廓内から警察の許可がなければ一歩も外へ出れなかったので、翌朝客を送ってこの橋迄来て きぬぎぬの別れを惜しむ。客は手を振りながら帰って行く。そこでこの柳がその名も「見返り柳」と云われて、遊廓がさびれた後迄も幹はウロになり、しまいには幹の片側がなくなった廃残の姿をのこして迄ここにあった。
「余滴」佐藤彌十郎より

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中央通りは昔は波止場通りと云われ、築港も岸壁もない時代は、この通り下浜に「ヤリダシ」を海に入れて、旅客、貨物の積おろしをやっていたので港頭という訳で最も賑わった通りで明治7年に藤田定行という人が開きました。

明治の中心街・橘町は…
昔は、稲穂崎から波止場までの通りが主要街だった。
野束橋から青橋・旧遊楽館前通り・○甲清水金物店に通じる新開の通りは俗称「裏町」といわれ花柳の巷だったのだ。

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かなっぺの「まちの歴史散歩」つづく…


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