見出し画像

ヘビとブーメラン

人の行動の基

──ジャー。
「あ〜すっきりした」
 太郎さんがトイレから出てきた。
「おはよう!徹」
「おはようございます。トイレ使えるんですね」
「流すのは簡単やけど、するのが大変なんや」
「ところで、僕、会社に行きますけど、太郎さんどうします」
「ここにいるよ。安全やしね。ところで徹、朝飯食ったか?」
「食べてないです」
「ダメだぞ、朝飯ぬいちゃ。エンジンがかかるのが遅くなるで」
「そうですね。いつも午前中は、なんか気合いが入らないのは、そのためですかね。でももう習慣になってしまってますから、胃が朝飯を受け付けないんですよ」
「今の若いやつには、徹のようなやつが多いんや。胃が朝飯を受け付けんようになってたら、まず、牛乳や野菜ジュースだけでもいいから、少し何かいれろや」
 朝から説教されると気分が悪い。でも、反論するのも面倒だったので、
「そうですね。途中のコンビニで朝飯買っていきます」
 そう言うと僕は太郎さんを残して会社に行った。会社は、製薬会社の本社や営業所が集まっている道修町にある。会社の主力製品は高血圧治療薬とうつ病治療薬、高血圧治療薬はシェア3位、うつ病治療薬はトップ製品だ。
 僕の課は伊沢課長、中島係長、先輩の加藤さん、川崎さんと後輩の藤田と僕の6人。伊沢課長はいわゆるワンマン課長で、あだ名は「フセイン」。中島係長は、伊沢課長の顔色ばかり見て仕事をしている。あだ名は「コバンザメ」。
 もちろんふたりとも陰でそう呼ばれていることは知らない。先輩の加藤さん、川崎さんはいつも会社の愚痴ばっかり言っている。課の雰囲気は決して良くない。その影響を一番受けているのが最年少の藤田だ。僕の成績は、平均的だが、課としての成績は下から数えた方が早い順位だ。そのため、ますます伊沢課長の指示は厳しくなっている。
 事務所は課長には個別のデスクがあるが、他の人にはない。大きなテーブルにLAN回線と電源が配置され、好きな場所で事務作業をする。面白いのはどの場所に座るかで、それぞれの人間関係がよく分かるってことだ。自然といくつかのグループが形成される。仲の良い人たちが自然と集まるからだ。
〝コバンザメ〟中島の周りには誰も座りたがらない。遅れて来た人が仕方なく座るって感じだ。僕は、会社にいると息苦しいので早々と営業に出た。今月は課が目標の売り上げに達していないので、得意先の医院や薬局に来月の注文を今月に出してもらえないか、お願いしなくてはならない。気がのらない仕事だ。
 というわけで今日は、一日中注文をお願いしに駆けずりまわった。さすがに疲れた。
「ただいま」
 テレビの音がする。見ると、太郎さんが上半身(?)を立ててテレビでニュースを見ている。
「お帰り。今日は大きな事件もなく平和な一日だったな」
 僕の不機嫌そうな顔を見て、
「ん?お前は平和そうじゃないな」
「今月の数字が足らないから、薬局を駆けずりまわって注文もらってたんですよ」
「それくらい、普通やろ?」
「それがうちのゴマすり係長が、『課長の指示だからな、必達だぞ!もし目標に足らなかったら課長に殺されるぞ!』って。いつも僕たちに指示出すたびに〝課長が、課長が〟ですよ。もう嫌になっちゃいますよ」
「ゴマすり野郎か。そんなのどこにでもおるで。いちいち腹立ててたら、きりがないやんけ」
「それは分かっているんですけど、頭にくるんですよ!」
「そのゴマすり野郎がゴマすることで、お前に何か影響があるんか?」
「確かにそう言われれば、何もないけど……」
「そうやろ。いちいち気にすんな。気にすることでお前が一番損をしているんやで」
「う〜ん、そう言われればそうですが」
「イライラしながら仕事してたらいい仕事はできへんで。ゴマすり野郎がゴマすってるのを聞くと、ええ気持ちせえへんのはよう分かる。けど徹に影響ないのなら気にせーへんことやな。そう心がけるだけで、ずいぶん気が楽になると思うで」
 確かに、太郎さんの言うとおりだ。
「でもなぜ係長、あんなにあからさまにゴマするんでしょうかね。周りの人はみんな分かっているんですよ。課長の顔色ばかり見て仕事してるって。だから、課長がいる時といない時では態度が全然違うんですよ」
「例えば?」
「忙しく仕事していて僕が聞きたいことがあっても、『今、手が離せないからあとで』って言うのに、課長から『係長、今大丈夫?ちょっといい?』なんて言われると、『はい、大丈夫です。なんでしょうか?』ですよ。いつもこんな調子だから嫌になっちゃいますよ」
「それは嫌になるな。ところで、人の行動の〝基〟となっているものは何か知ってるか?」
「好きか嫌いかですか?」
「ブッブー。人の行動の基となっているのは、2つ。『愛』か『恐れ』かや」
 愛か恐れ?ヘビにしては難しいことを言う。
「例えば、その係長。行動の基になっているのは恐れやな。課長を恐れて行動してるんや」
「う〜ん。そう言われれば確かにそうかな。課長の顔色ばかり見てますからね」
「もっと、掘り下げてみると、係長は課長の何を恐れてるんや?」
「怒られることとか? 機嫌を損ねることとか?」
「その裏には何があるんや?」
 少し考えてから、「課長からの評価ですか?」と答えた。
「そのとおり。課長に嫌われると評価が下がることを恐れてる。では、なぜ、評価が下がることを恐れるんや」
「そりゃ、評価下がったら嫌でしょう」
「なぜ、評価下がったら嫌なんや?」
「給料上がらないし…」
「そして昇格しないしな。でも、みんなが昇格しないなら何も恐れることはないんや。自分だけ昇格しないとか、同期が先に昇格したとか、そういう事を恐れるんや」
「ふ〜ん」
「じゃ、なぜそうなっちゃうんや?」
「……」
「人と比べるからだよ。人と比べることを止めると、この手の恐れはなくなるんや」
 ややこしくて頭が混乱してきた。人の行動の基となっているものは『愛』か『恐れ』。そう考えると、会社員の行動って、ほとんど恐れから来ているんじゃないか?
「じゃ、愛から来る行動ってどんなのです?」
「見返りを期待しない行動?」
「そや。見返りを期待しない行動や。人からよく思われたい、とか考えない行動やな」
 太郎さんはさらに続けて、
「他に『怒り』も恐れから起きるんや」と言った。
「怒りもですか?」
「自分が何を恐れて怒っているのか考えると、怒りは治まるで」
 自分が何を恐れて怒っているかを考える……、か。ということは、他人が怒っている時も、その人が何を恐れて怒っているか、考えるといいってことだな。
 太郎さんがインターネットの画面を見つめている。
「太郎さん、何を見ているんですか?」
「娘のブログ」
「何書いてます」
「日々の出来事やな」
「元気そうですか?」
「元気みたいや」
「でも、そんなの読んでいたら、生き返りたくなるんじゃないですか?」
「良くないかなあ」
「良くないですよ。いつまでたっても成仏できないですよ、忘れないと。娘さんはいつまでも太郎さんのこと、覚えていますって」
「そうやな。未練がましいよな」
 そう言うと太郎さんは、娘さんのブログを閉じた。
「でも、どうせ生まれ変わるんなら、人間が良かったなあ」
 と太郎さんがつぶやいた。太郎さんは、まだ何か見ている。覗いてみると長澤まさみのホームページを見ている。
「長澤まさみですか? いい年して」
「ええやんけ、俺が誰のファンでも」
「どうせなら世界のヘビのホームページでも見たほうがいいんじゃないですか?」
「うるさいなあ、人が何を見ようと勝手やろ」
「あっ、怒った。今のは、何に対する恐怖ですか?」
「……」
 
太郎さんはここ数日、何も食べていない。梅雨時になるとヘビは食欲がなくなるのだろうか?
「太郎さん、ダイエット中ですか? 最近、何も食べていませんが」
「アホか! こんなにスマートなのに、なんでダイエットなんかせなあかんのや!ヘビは1週間くらいなら飲まず食わずで大丈夫なんだよ」
「便利な体ですね」
「そや、前に言った〝人からの評価〟のことやけどな」
「ええ」
「自尊心って知ってるか?」
「なんとなくですが」
「自尊心っていうのは、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度を言うんや。この自尊心がなければ、何か満たされない気持ちになり、それを他人からの評価で満たそうとするんや。言い換えれば他人からの評価に依存し、他人から評価されないことへの恐れが生じるんや。分かる?」
「分かりません」
「……」
 太郎さんが呆れた顔をしている。正確に言うと、呆れた顔をしているように見えた。
「分かりやすく言うとやな、自分に自信がなければ他人の評価が気になるってことや。逆に自分に自信があれば、他人にどのように思われようが気にしないようになれるってこと。分かった?」
「なんとなく」
「お前、いつも『なんとなく』やな。恐れは消せなくてもええんや。だれにも恐れはある。その恐れに支配されないようにすることが大事なんや」
 そう言うと太郎さんは、とぐろを巻いて寝てしまった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?