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麗しい日々

 最後の日課を済ますと、私はベッドに入った。
 灯りを少し落として読みかけの本を少し読み、すぐに眠気が襲ってきたので、本を閉じて眼鏡を外す。本を読むのは寝るために儀式的に読んでいるだけなので、読み進めることができなくても気にならない。

 私の一日は、ほぼ判で押したように決まっている。朝起きてから夜寝るまで、自分に課したスケジュールがあり、その通りに行動している。曜日ごとにも決まりがあり、ともかく日課を済まさないと気持ちが悪い。

 家族と一緒に住んでいる頃は、さすがにこうはいかなかった。仕事も毎日同じではないし、家族は思いがけないことをしたり言ったりする。子供が独立し、夫に先立たれた後は、気がねなくこうした生活を楽しんでいる。
 麗しい日々だ。

 朝はアラームもならないうちに目が覚める。体内時計がいちぶの狂いもなく私を目覚めさせるのだ。私は起きて床を整えると、顔を洗い歯を磨く。今日は燃えないゴミの日なので、昨晩から用意していたゴミ袋を持って家を出る。この時間帯はついこの間まで白々と明るかったものだが、今時期はとっぷりと闇だ。きっかり同じ時間歩いて、きっかり同じ時間に家に戻ると、手を洗いテレビをつけ、朝食の支度にとりかかる。
 同じ番組を観ながら朝食を取り、少し体操をしてからいつものスーパーマーケットに買い物に行き、昼食を食べてから午後は図書館に向かう。この時間にクリニックの予約が入っていることもあるし、美容院に行くこともある。帰宅してから夜寝るまでにも、だいたいすることが決まっている。

 たまに、娘から電話がかかってくる。娘の話題はほとんどが孫のことだ。電話は嬉しいし孫は可愛いが、娘が自分の夫と息子のことをくどくど愚痴って時間を浪費するのが最近たまらなく嫌だ。日課が滞るのが気になりそわそわしてしまう。まあそんな年頃なのね。そんなこともあるわよ。あなただってそんなふうだったわよ。男の人ってそういうものなのかしらね。——この頃は相槌も定型文だ。そのせいか、娘は少し私の認知を疑い始めているらしい。一緒に病院に行きましょうよ、と、二度も言われた。少し、不愉快。

 ひとり暮らしの友達は、みんな寂しい、寂しいという。何をしても独りでしょう。世の中の人はみんな家族といて幸せそうにみえるじゃないの。あんなに嫌だった夫でさえ、たまにいてくれたらと思うことだってあるわよ、そうじゃない?
 そうねえ。そうかもしれないわねえ。
 私はそんな適当な合いの手を入れながら、別段そんな風には思っていない自分に気づく。毎朝早起きして弁当を作り、こまごまと夫や子供の世話を焼き、彼らが勤めや学校に行っている間に家事を済ませ、洗濯をしてアイロンをかけ、パートに行って帰宅して夕飯を作り弁当の支度。日曜日だってできていない掃除や布団干しなどの家事をしていた。そんなことを思うと、一日24時間を自分のために使うのはなんて贅沢で楽しいことだろうと思う。きっと私には他者に対する思いやりや優しさがないのだろう。

 去年夫を亡くした友達は、最近特に頻繁に連絡をしてくる。
 これまで付き合ってきた友達と会うのが嫌なのよと彼女は言う。だってみんな夫とか子供とか孫とか、そんな話ばかりでしょう。街中で夫婦連れ立って歩いているのを見るのが辛いわ。羨ましいというんじゃないの。自分が独りだってことがみじめに感じるだけ。
 ふうん、と私は聞いている。これまであなたは夫のいる人とばかりつきあってきて、それが当たり前と思っていただけじゃないのかしらと心で思う。自分の伴侶がいるうちは、独り身になった私のことなんて思い出しもしなかったのに、今になって仲間のように寄って来るのね、と少し可笑しいような気持ちになる。

 別の日には、息子夫婦と同居の友達が電話をかけてくる。
 ねえ最近、鮎子さんが冷たいのよ。鮎子さん先年お連れ合いを亡くされたでしょう。しばらくは、一緒に句会に行ったり、カラオケに行ったり、ランチや温泉旅行や、ねえ、一緒に行ったでしょう。鮎子さんが率先して車を出してくれたじゃないの。でもこの頃は、新しいお友だちが出来てそちらとばかりなのよ。独り身の会って言うのですって。私とはもう話が合わないからっておっしゃるのよ。私、すごくお友だちだと思っていたのよ。
 あらそう、と私はまた相槌を打つ。そんなこともあるわよね。人生いろいろですもの。同じ境遇でないと分かち合えないと思う人もいるものね。
 電話を切ってから、車、というフレーズが何となく心にもやをかける。車を持たないものね、私。

 別に嫌な気持ちにはならない。女性は状況によって交際する人や範囲が変わる。私だって、たまたま子供がいたというだけで、交際に大きな溝が開いたことが何度もある。子供が小さいうちは独身の友達が離れ、ママ友たちのグループは紹介制度の会員制みたいだった。閉経を迎えるような年齢のころには、子供が成人しようが結婚して親になろうが、産んでからは心配がなくなることはないという人もいれば、産まなかったのがただひとつの後悔よという人もいた。産めなかった気持ちなどあなたには絶対にわからないと言われたこともある。そう言った人は皆、結局は今、私の傍にいない。

 私にはそもそも、他人の気持ちなどわからない。わかりますとか共感しますとか簡単に言ってしまえる人の気がしれない。わかるはすがないと思う。わかるような気がしているだけで、それは当人の気持ちの域を超えることはないと思っている。

 よく、あなたはいつも淡々としているのね、と言われる。微笑みを浮かべて相槌をうつだけの私を、つまらないと思う人もいるし、優しいから好きと言う人もいる。みな、勝手に決めているだけだ。そこに本当の私はいない。私は誰かと毎日会わなくてもいいし、一緒にどこにかに行かなくても構わない。時々人生の深い話をする友達が少しいればそれでいい。

 死ぬ時はひとりじゃないの、と思う。そばに何人も居たとしても、肉体から離れるときはひとり。なんとなく見守っていてほしいのかしら、幼い頃、トイレにひとりで行くのが怖くて、そこで見ていて、と母に頼んだ時のように。

 私は今、私の日課を暮らしている。いつか私にも最後の時が訪れる。死んだら初めての男が背に負ぶって三途の川を渡ってくれると聞いたことがあるけれど、顔も忘れてしまったわ。
 向こうではせっかちな父がそわそわ待っているのだろうか、大きな乳房が悩みの種だった母が抱きしめてくれるだろうか。夫がもじもじと迎えに来るのも悪くはない。心を分かち合った親友は、若いまま私の名を呼ぶのだろうか。

 今気になるのは、私の最後の日課は何になるのか、ということだ。膝に広げた終身ホームのパンフレットを眺めながら、少し首を傾げて考える。お風呂の中は嫌だから、せめてお風呂を出て、踵に油を塗ってからがいいわ。
 そんなことを思いながら、私は少しほつれた踵に大白胡麻油をすりこむ。
 私の毎日の、これが最後の日課だから。


#シロクマ文芸部

 


 2023年、〆の創作です。
 今年は「シロクマ文芸部」さんに出会えて本当に良かったです。
 そこでの創作から、こんな本ができました。

その本から、さらに心躍ることもありました。

 小牧部長、素晴らしい出会いに感謝いたします。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。