創作大賞感想【メリー・モナークin大原田/とき子】
読み始めたのは連載が始まった時だった。
これは一気読みがいい、と思って少し待つことにしたら、しばらく読む機会を失ってしまった。
「読む」タイミングとは不思議なものである。
今、私にとってこの物語の印象は、読み始めの印象と全く異なっている。なぜなら読み始めたあの日と、今の私は違っているからだ。感じ方も、もちろん違っている。なぜなら、私は今、「姉ちゃん」こと花乃とある意味同じ立場になってしまったからだ。母の病がわかった。このひと月余りの間に。
そして一気読みして、改めて気が付いた。
「え・・・花乃のお母さん、私と同い年だ」
大原田家の子供たちは、25歳の長女と大学生の長男。『メリー・モナークin大原田』は、彼らが交互に語り手となる。
ふたりの語る「母」は最初、私の中では「自分より年輩」だった。ところがどっこい、改めて読み始めてすぐ、お母さんが自分と同じ年だと気づき、これまた景色が一変した。
なるほど、「ねるとん」ならぬ「つるとん」。
お父さんが「フラッシュダンス」って言うわけだ。
完全に同世代……
だからこそ、お母さんの病気が身に迫る。家族のためだけではなく、生来明るく前向きなお母さんの姿は「あとがき」によると、まさにとき子さんのお母さんの姿だという。素晴らしいお母様だと思う。
とき子さんは、私がお名前を知ったころには既に本を出されていた。noteの中で華やかにきらめいていらっしゃる。おそらく同じころにnoteを始められたと思うのだが、最初のころは、その存在を知らずにいた。
「すまスパ」の初期メンバーでもあり、現在は地方局で自分のエッセイの朗読番組を持っている。活動的で、活き活きとして、好きなことに一生懸命で・・・明るく周りを照らしている太陽のようなイメージだ。
とき子さんに、ちゃんとメッセージしたのがいつか、割とはっきり覚えている。ウクレレの練習を、「ほぼ日手帳」に記録している、という記事だった。
とき子さんが、ウクレレの弾き語り、というすごいステージに立とうとしているのを全く無視した「ほぼ日」発言である。
改めまして、すみません。
この記事でも、かつてとき子さんがかなり一生懸命フラをした、ということが書いてあった。練習もなかなかにスパルタだったらしい。
この『メリー・モナーク』にはフラのことか詳しく書いてある。だからといってフラのことを全く知らない素人の私が読んでも、全然大丈夫だった。小説中でよくわかるようにうまく解説してくれていて、作品を読むとおおざっぱにフラダンスの世界がわかるようになっている。「あとがき」には、作中に出てきたフラのダンスを映像を引用して解説もしてくれているから、なおさらわかりやすい。
この物語は、フラを通して家族が一致団結する物語であり、フラが結ぶ縁の、恋愛物語でもある。
最初に読んだときは、「俺」「私」という複数主人公によるモノローグが交互に立ち現れるため、語り手である姉弟に感情移入して読んでいたが、お母さんの年齢がわかってからは、いつのまにかお母さんとお父さんの目線に切り替わっていた。
昭和感の残るお父さん。そして「読まれる前提で日記をつけていた」お母さん。なかなかの組み合わせである。お母さんの病気が抜き差しならないもので、余命宣告されていると花乃が大袈裟に脅したことで、頑なに読まなかったお母さんの日記を読んだお父さん。
これまでのことを反省したお父さんが言い出したのは、「大原田家でフラをやりたい」であった。いや。もとい。お父さんは最初はそんなことまでは言って無い。「フラッシュモブをやりたい」と言ったのだ。
フラッシュモブは、街の雑踏の中などで、時計の音などなにかの音を合図に突然踊り出すパフォーマンスのこと。サプライズのプロポーズなどによく使われるらしい。
お父さんはそれを「フラッシュダンス」と言い間違えたのだが、その「フラッシュモブ」の提案が、姉・花乃の提案によってフラになっていく様子が面白い。
でも。でも、である。言い出した本人の花乃が、フラダンスに対しては最も葛藤があったのである。
フラに夢中になっていた高校生のころ、親友でライバルである円花に負けた、と思う花乃。「花花コンビ」とまで言われたのに「オピオ(中高生くらいの年齢の女性のフラ)」は円花がソロで踊り、自分は団体で、団体のほうでも優勝できなかったということが、花乃のトラウマになっていた。
花乃はそれを機に、フラをやめた。
でもこれは、花乃の思い込みと記憶違いの部分が多々あったことが、後に明らかになる。
葛藤を抱えた花乃と、長年連れ添って不満をためさせてしまった妻になにか償いをしたい、と思う父。それに引っ張られるように自分の空手仲間をフラに引っ張り込む弟・真咲。その思惑は、思わぬほうへ(といっても明るい方向へ)と展開していく。
なによりも、フラへの熱い思いが溢れる物語である。そして、子供と親、特に母への気持ちと母娘の葛藤や、夫婦の絆に胸が熱くなる。
心の中を熱いなにかで満たしたいあなた。
『メリー・モナークin大原田』と一緒にフラの旅にでませんか。
―――というわけで、この先はネタバレのお時間だ。
「まだとき子さんの物語を読んでいない!」と焦っている方は、ここまでで。
私の感想文はネタバレ込みとなっている。どうぞ悪しからず。
フラダンスと言えば、思い出す人がいる。
昔、英会話を習っていた時に、よく同じクラスになっていた当時50代の女性は、フラに夢中だった。
英会話なので、レッスンの間に、今週何をしたかや、今好きなことについて話す時間がある。彼女の話は、ほとんどがフラの話だった。フラの話の次は、仕事の話、大学生のひとり息子の話。レッスン中はそれで100%だった。
がしかし、彼女の話題は本当はそれで100%ではなかった。帰り道、彼女は「今好きな人の話」をした。それは完全に中高生のコイバナだった。ディテールは忘れてしまったが、仕事が同じで、同じバスで通勤しているので、良く話すようになったのだということだった。
20歳を少し過ぎたくらいの、息子とさほど変わらない年齢の彼だ。
もちろん不倫相手ではない。そんな相手ではない、と彼女は力説した。
「ただ、私が大好きなの!」
今で言うと「推し」に近い恋だったのだと思う。毎日、見かけたり、話を少しするだけで幸せなのだと彼女は言った。その話をする彼女は、フラの話をするときと同じくらい、キラキラ輝いていた。シングルだとは言っていなかったが、夫の話はほぼゼロだった。
当時30代で、そこまで恋愛に興味がないタイプの私は、「50代で、結婚していて子供が成人間近で仕事も忙しいのに、フラをして恋をして、すごいなあ」と思っていた。私にとって彼女は「いつもなにかに一生懸命」な人だった。
この『メリー・モナーク』を読んでいる間、彼女のことを思い出していた。
この物語のお母さんは、娘の花乃がフラに熱心になったときにフラを諦めてしまった。経済的なこともあるし、仕事を始めて時間的に余裕が無くなったこともあるだろう。娘の花乃も、そう思っていたようだ。
でも、本当は自分もやりたかったのでは、と、母の日記を読んで花乃は驚く。
ちなみにこの「日記」が面白い。
お母さんはこの日記を密かに「夫に読ませたい」と思っており、長年にわたり「公開日記」として書いていたようだ。一種のブログ感覚だ。平安時代の日記か、性癖の暴露を恨みつらみに変えた谷崎潤一郎の『鍵』みたいな日記である。しかし、堅物の夫は一切日記には手を触れず、お母さんが病と知って初めて開いてみたのだった。そこには自分への愚痴と不満が満ち満ちており、お父さんはようやく、妻の内面に初めて向き合う。
お父さんは、自分の妻に対しての無関心で無理解な姿が浮き彫りとなった日記を読んだ後も「フラはただの趣味」と言い切って憚らない。無関心で無理解、にプラス、日記で告発されてもまだ無自覚である。
それに長女の花乃は怒り狂うが、実は花乃も同じだった。
果たして自分は、母のことに関心を持ち、理解しようとしていただろうか、と思う。自分のことばかりで、母の気持ちに目を向けることがなかったことに、いまさら、思い至る。別の時、別のシチュエーションだが、弟の真咲も同じことに思い至るシーンがある。
可愛い顔をして「脱ぐとすごい、バズっちゃう身体」である友也は真咲の友人で、親がフラダンス教室をしていた関係で、フラも好きだしフラには詳しい。ちょっと空気が読めないけれど、時折物事の真髄を鋭く突く。花乃には以前から憧れの気持ちを抱いていたようだ。
お母さんは、55歳。
身体が元気だったら、それからでもフラをやるのは遅くはないのかもしれないが、いちばんやりたかった時に、やることができなかった。家族は病に倒れてからようやく「母」に向き合い、いかに「母」に支えられてきたか気づく。家族がいかに「母」を犠牲にしてきたかにも。
無自覚で無理解で無関心で非協力的なお父さんは、それでも、お母さんのことはよくわかっている。
「自分も一生懸命にやるのが好きだが、それと同じくらい、一生懸命な人を見るのが好き」。
かつての英会話の同級生も、そう言っていた。
お母さんが病気の時に家族総出で踊っていていいのか、とは、家族みんなが思わなくもなかったようだ。それでも、お母さんが一番喜ぶのは、おそらく「家族が一生懸命になっている姿」、しかも「お母さんが好きなもののために」ということに間違いはない、と、私は思う。
やるなら徹底的に、と、花乃はかつて「花花コンビ」と言われた、ライバルにしてシスター、円花に連絡を取り、指導を仰ぐ。
円花は、花乃がフラを辞めたときの大会に対する本音を、花乃にぶちまけた。自分はどんなときも花乃と一緒に踊っていたのに、逃げ出したのはあなたただ、と。
美しくたおやかで、フラの講師としての成功も収めた円花への嫉妬を乗り越えて、花乃も「フラが大好きだったあの頃の自分」を取り戻す。
ついでに友也という伴侶にも巡り合う。わりとついでに。笑
でもおそらく、ふたりはお互いに「第一印象から決めてました」の相手だ。
幸せな縁に違いないと思えるふたりである。
そして家族は踊る。
「結婚記念日は海辺で」と海辺のグランピングのテントを借りて、サプライズでお母さんを浜辺に誘い出して、砂浜でフラを披露する。
このあたりはもう、ヴィジュアルがすごい。
目の前で映画を観ているようだ。
「ずっと一緒にいてください。僕が死ぬまでずっと」
お父さんにレイを渡され、「過去は全部、今に繋がるのね」と言ったお母さんの喜びは、ひとしおだったと思うし、家族がなにかに一丸となって笑顔を生むこと、それがなにより、大きな力になっていくと思う。少なくとも、キラーT細胞が活性化しまくったと思う。
すんません。
私はもう、ここで胸がいっぱいだ。
「自分が母」の気持ちと、自分の親への気持ちが溢れかえっている。
こんな感動を、たくさんの人に伝えられるとき子さんは何者なのだろう。それはきっと、フラの精神、でもあるのだろう。
私はこの物語の、ときどき思わず吹き出してしまうユーモアと、華やかなフラのいのちへのメッセージに、勇気をいただいた。
感謝を込めて、私も叫ばせてもらおうと思う。
「メリー・モナークin大原田!」
「with江田ー!」
ブラボー、大原田家(&踊ったみなさん)!
ブラボー、とき子さん!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?