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「蜻蛉日記 後半生編―とどまるところを知らぬノロケをお聞きくださいませ」第3話

暫くして、初瀬殿が白湯の入った器を片手に戻ってらっしゃいました。
 
「どうなりましたか?」
「河原でキジをやりました。おいしそうにムシャムシャと喰っておりました」
わたくしは、大きく息を吐いて、顔を覆いました。
「わたしがいる限り、痩せ犬をお屋敷に近づかせるようなことはいたしません。家人にもお屋敷の周りをうろついていたら、追い払うよう言いつけておきましょう」
わたくしを包み込むように、抱きしめながら、おっしゃいました。
 
安心しきってすすり泣くわたくしに、初瀬殿は話かけられます。
「今度はわたしの話をお聞き願えますか?」
自分の気持ちの浮き沈みにばかりに気を取られていて、初瀬殿が、わたくしを覗き込むようになさっているのにも気が付きませんでした。
「なんでございましょう?」
 
初瀬殿は狩衣の懐から、小さな布製の袋をお出しになりました。
「これはわたし共の播磨の塩田で取れた最高級の塩でございます。年に一度、都から少量の最高級の塩のみを買いに来る方がいらっしゃいます。ある時、在庫を切らしてしまいまして、別の塩田からのものをお勧めいたしましたが、こちらのでなくてはダメだとおっしゃいます。なぜですかとお尋ねしました。なんでも、その方がお仕えするさる高貴な方は、時折カラダが固まって、何ヶ月もふさぎ込んでしまわれるのだそうです。ですが、この塩を毎日、少量ずつ採っていれば、そのようなことになることも少ないと」
「まことのお話でございますか?」
「ええ。違う塩も色々と試されたそうですが、やはりわたし共の塩田からとれる物が一番よろしいようでございます」
「まぁ。では、わたくしのほかにも、カラダが固まってしまう方がいらっしゃるというのですね」
「ええ。昨日こちらであなたの御容態を伺って、すぐさま、馬を飛ばして播磨に参りました」
「まぁ、では、お帰りになったばかりですの?」
「今朝、戻りました。さぁ、こちらに白湯をお持ちいたしました。もう冷めてしまいましたが」
初瀬殿は、塩の小袋を開け、
「このように、日に一回、ほんの少しでよろしいのだそうです」
と、長細い人差し指と親指で塩をつまむと、湯飲みに入れて、懐から取り出された小さじでカチカチとかき混ぜられて、わたくしに、
「さぁ」
とすすめられます。
 
わたくしが、少ししょっぱい白湯を飲み干しますと、わたくしを優しく抱きしめられ、おっしゃいました。
「ご存じでしたか? 犬は塩を嫌うのですよ。これで、もうご容態が悪くなることもございません」
 
こうして、わたくし共は初めて同じ所で、床に就いたのでございました。
 
翌朝、道綱のダンダンダンダンという、足音に目が覚めました。
「母上! 母上!」
とわたくしを呼んでおります。
ふと、横を見ると、初瀬殿が生まれたままのお姿で、眠っておられます。なぜ、夜が明けてもいらっしゃるのでしょう?
 
「母上! おられないのですか?」
記帳の外に跪く道綱の声がします。
「すぐに参ります。粥でも召し上がっていなさい」と道綱を追いやり、侍女を呼び身支度を整えます。
今直ぐにやらなければならないことは、道綱が求婚中の越の(こし)女への後朝の文をしたためることでございます。自分のことは後回しです。
 
粥をいただいている道綱から、越の女についてさらに詳しい情報を集めます。サラサラと、2つ、3つ、歌を詠み、
「一番良いと思うものを選びなさい」
と見せます。
 
道綱は、
「母上、なんてすばらしい歌でしょう! 完全にオーヴァー∙ザ∙トップでございます」
と訳の分からないことを申します。
 
無事に後朝の使いに文を持たせて送りだし、道綱も出仕いたしました。
 
さて、養女と朝食でもと立ち上がりました時初めて、自分のカラダが自由に動くことに気が付きました。気分も上々です。初瀬殿のお塩の効果でしょうか。
 
そこへ、初瀬殿が、
「歌を詠むのはあまり得意ではありませんで」
と文を片手に入ってこられました。
「まだ、おられたのですか?」
とお聞きしますと、
「常識を無視しているのは、承知でございますが、わたしが一度おいとましては、あたなの気が変わってしまわれるかもしれません。今日はこちらに置いていただけませんでしょうか? あなたを見張っていないと。文は確かにお渡しいたしましたよ」
と、おっしゃる。そこで、初瀬殿もご一緒に養女と朝食をいただいたのでした。
 
さて、2日目の晩も、初瀬殿のお作りになった塩入りの白湯をわたくしが飲み干した後、床を共にいたしました。昨晩は、すでに老いて醜くなってしまったわたくしのカラダを、このようなお若い方がどう思われるだろうと、そればかりが心配でした。ですが、この夜もこんなにも喜んでいただけて、心ばかりは娘の頃に戻ったような気がいたします。
 
翌朝、生まれたばかりの姿で、初瀬殿と重なり合ったまま眠っておりますと、道綱のダンダンダンダンという、足音に目が覚めました。
「母上! 母上!」
と今朝もわたくしを呼んでおります。
 
昨日と同様に、二人で越の女への文をしたためます。
「母上が昨日お作りになった歌の一つを、お送りしましょう」
と道綱は粥を食べながら申します。
「再利用はいけません。恋のお相手には常に新鮮な歌をお詠み申し上げなければ。昨夜は越の方はどんなご様子でしたか申しなさい」
道綱からの乏しい情報を元に、サラサラと2,3作をしたため、一番良さそうなものを、道綱に写させ、使いに持たせました。
 
さて、寝所に戻りますと、初瀬殿が、書きかけの文を前に頭をひねっておられます。
「右馬助の君が羨ましい。わたしにも、あなたのような詩人がいたら」
とすねた御様子です。
「お手伝いして差し上げるわけにもいきませんでしょう」
と申し上げると、
「ええい、ではこちらをお受け取りください。いくら考えていても時間の無駄です」
とおっしゃって、わたくしに歌をくださいました。
 
「今日もこちらにいらっしゃるのですか」
とお尋ねすると、嵯峨に一度お戻りになるとのことです。
「母上に怒られてしまいました。今日こそは、馬の匂いのしない、まともな装束で、婚礼に臨まなければ、紀家の恥だと。夫になる前からこちらに入り浸りとはどういうことかと」
「では、(今夜も)いらっしゃるのですね?」
とお尋ねすると、ニンマリとお笑いになるばかりで、わたくしの髪に触れられると、何もお答えにならず、わたくしをカラダが折れるほど強く抱きしめられました。
 
初瀬殿がお出になった後、さぁ、養女と侍女たちと、自分と道綱の婚礼の準備で大忙しです。まずは餅、料理、酒を手配をし、父、兄、姉、叔母にあたる方々をご招待する文をお送りします。わたくしは道綱の婚礼の衣装を入念に整えます。香に詳しい侍女が道綱の衣装に特別な香を焚きしめます。侍女たちは念入りにそこら辺を掃除します。
 
古株の侍女で三日夜餅を準備した者は、
「あなた様のために2回もご婚礼のお餅をご用意することになるとは、夢にも思いませんでした。御母君が生きておいででしたら、どんなにかお慶びでしょう」
と、ハラハラと泣きます。
 
さて、まず道綱を送り出しました。香を焚き染めた、淡い橙色の直衣に紺の指貫を合わせ、帝(円融天皇)から賜りました、檜扇(ひおうぎ)を携えて車に乗り込みます。どこから見てもまごうことなき貴公子です。
 
道綱が出たと思いきや、初瀬殿が共の者を大勢携えて賑やかにお越しになりました。車に山と積み込まれた嵯峨野の産物を台盤所に運びこみます。従者が屋敷の奥に嵯峨の叔母上が自ら染められた反物を重ね置きます。最新型の牛車とまだ1歳の牛が車宿に入ります。どんな高貴な方々のお車よりもポッシュです。
 
「車は母上からのプレゼントでございます。あなた様は嫁というよりか、自分の娘としか思えないのだそうでございます。正妻を迎えたからには、馬で走り回ってばかりいないで、たまにはあなた様とこの車をお使いなさい、と仰せです」
 
初瀬殿はそうおっしゃって、嬉しそうに微笑まれました。ほんに、このような、道綱とさほど変わりないようなお若い方を、わたくしのような歳老いた女が夫としてもよろしいのでしょうか?
 
営みの後、大変立派に飾られた三日夜餅を初瀬殿といただきました。
 
そして、親戚の者たちが待っている広間へ2人で参りました。従者や家人にも酒と料理を振る舞います。
 
直前まで、わたくしの結婚に大反対しておりました兄上までも、
「大変喜ばしいこと」
と、袖で涙をぬぐっておられます。
 
宴もたけなわな頃、道綱がダンダンダンダンという、足音をたてて、広間に入って参りました。
「音をたてて、渡り廊下を走るのは誰ぞ?」
と叱る、兄上を無視して、
「母上! 間に合いましたよ!」
と、おじい様にご挨拶もせずに叫びます。
 
道綱は自分の婚礼もそこそこ、わたくしの婚礼を祝うために、馬を飛ばして駆け付けたのでした。
 
すでに酒が入って、テンションが上がっているものですから、
「なんと、喜ばしいのでしょう! 初瀬殿、母上のような、スーパー∙ウーマンを娶られたあなたは果報者でございますよ!」
などど申します。幼い頃から家人には人気のある子でしたので、皆、「若君」の言動に苦笑しています。
 
このようにして、わたくしの第2の結婚生活が始まったのでした。
 
続く
 
 
 

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