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「蜻蛉日記 後半生編―とどまるところを知らぬノロケをお聞きくださいませ」第2話


車が屋敷の門をくぐりましたが、わたくしは、あの痩せ犬も屋敷に入ったのだろうか、と怖くて怖くてたまりません。身動きもできないでいると、わたくしになにが起こったのか見当もつかない養女は、
「お母様、お母様、どうなされました?」
と、騒ぎたてます。
 
家から出てきた古株の侍女は、車の中のわたくしを一目見るなり、男手を集め、わたくしを寝所に運ばせました。
 
そこへ、鷹狩から帰ってきた道綱が、
「母上!」
と、ダンダンダンダンと足音をたてながら、わたくしのいる所に入ってきます。
「御気分が優れないと伺いましたが?」
道綱はわたくしを一目見るなり、状況を察し、心配で泣かんばかりになっている養女に話かけ始めました。
「母上は、たまにこのように固まってしまわれるのです。初めて御覧になって、驚いてしまわれましたね」
我子ながら、女子供に優しい、いい青年に成長してくれたものだと、神仏に感謝を捧げたくも、声も出ません。
 
初瀬殿からは、問い合わせの文が矢のように届きます。養女に、具合が悪いと代筆させます。
 
翌日の夕刻、少しはカラダを動かせるようになりました。道綱と養女がわたくしの上半身を支え、ゆず湯を飲ませてくれます。そこへ、初瀬殿が、几帳を隔ててお入りになりました。
 
(なぜ、お通ししたのです?)
と、非難の目を道綱に向けましたが、わたくしに答える代わりに陽気に初瀬殿に話されます。
「母上は、大分回復されました。今、ゆず湯を差し上げているとことです」
 (初瀬殿は)大きなため息をつかれ、
「それは、よろしゅうございました」
とだけおっしゃりました。
 
暫く、道綱と初瀬殿は嵯峨野の鷹狩の穴場などについて世間話をしておりましたが、道綱も出かける準備があると言って下がり、養女も自分の所に戻りました。
 
初瀬殿が、笛を吹き始められました。開けられた蔀から、二日月が見えます。細い黄金色のカーブがエレガントです。そよ風に乗って、藤の香りが漂ってきました。
 
ふと、気が付くと、笛の音はもう聞こえません。藤の香りに混じって初瀬殿の香りが強く漂ってまいりました。
 
「お香を変えられたのですか?」
「あなたが、お嫌だろうと思いまして」
そう、おっしゃると、なんということでしょう! 几帳を開けて、わたくしの寝ている所ににじり寄ってこられます。
 
「いけません!」
と逃げようとしても、カラダが動きません。
 
「どんなに、心配でございましたか!」
と、わたくしを胸にかきよせられます。
あんまりのことに、わたくしは言葉も出ません。このような、病んだ醜い姿しかお見せすることができず、恥ずかしさに、このまま消え入ってしまいたいと思いました。
 
「それでは、仮病ではなかったのですね?」
「はい?」
「わたしを避けるために、仮病を使われているのかと」
「まぁ、そのようなことはいたしません。本当に具合が悪かったのです」
初瀬殿はますます強くわたくしを抱きしめられる。
「お放しください。人を呼びます」
そう、申し上げても初瀬殿はビクともされません。
「この腕が忘れられないのです。初瀬であたなをお抱きした感覚を。あなたの髪が触れた時の驚きを」
そして、床にひれふしてわたくしの髪を両手でおすくいになり、お顔を埋められました。
「なぜ、受け入れて下さらないのです? わたしが貴族ではないからですか?」
と、涙声でおたずねになります。なんてお可愛らしいのでしょう! そのようなことではございません、と申し上げます。
「夫にしていただけたら、あたなの嫌がることは決していたしません。他の女とそういう関係になることも、もはやございません」
「殿方は、最初は皆さんそうおっしゃいます」
「わたしは違う!」
そうおっしゃると、童のようにお泣きになりました。
 
この2日間に、天から降る矢のように大量の恋文と、心のこもったお見舞いの品々を頂き、わたくしもそろそろ覚悟を決めなければと考えていた矢先でございました。
 
「よろしいのですか、このような老いぼれた女でも?」
初瀬殿は、ただ震える細長い指でわたくしの髪に触れられます。
 
「それでは、聞いていただきたいことが1つございます」
初瀬殿は、袖で目頭を押さえながら、うなずかれました。
 
「あれは、わたくしが5つか6つになる年でした。両親とどちらかへ、お詣りに行った帰りに、ふと車の外を見ると、骨と皮ばかりに痩せこけた犬が道端で死肉を喰っているのです。あんまりの光景に、癇癪を起したようになってしまいました。以来、痩せた犬が怖くて怖くてたまらないのです」
初瀬殿は、わたくしを優しく広い胸にかき寄せられました。
 
「あれは、助の父親にあたる方との求婚中のことでした。ある日、母君と西のお山からの帰りに、河原からあの痩せ犬が這い上がってきました。だんだんとわたくし共の車に近寄ってくるではありませんか。犬は車と一緒に宅の門をくぐりました。息が止まるかと思いました。痩せ犬は、縁の下にもぐって隠れているようでしたが、わたくしが縁側に出ると、庭の片隅に立って、あの濡れた目であたくしのことを、悲しそうに見上げるのです! もう、気を失うかと思うほど動転してしまいまして、しばらく口もきけず、カラダも固まって、よう動けないようになりました。以来、時折、あの痩せ犬を見るたびに、このように具合が悪くなるのでございます。この世から全ての喜びが消えたかのような、真っ暗な気分になるのです。祈祷をさせても効き目はございません。2,3週間でよくなることもございますし、1,2ヶ月しないと床から出れないこともございます。今も、この床の下にあの痩せ犬が隠れているかと思うと」
わたくしは、すすり泣きを抑えることができませんでした。
 
初瀬殿は、そっとわたくしをご自分の胸から引き離されると、
「まだ、縁の下にいるかどうか見てまいります」
と、スタスタとお出になりました。
 
暫くして、ろうの灯の匂いをさせながら初瀬殿がお帰りになりました。
 
「まだおりました。わたしが怖いのか、灯がこわいのか、縁の下から出てきません」
「本当にいたのですか?」
「はい」
「御覧になったのですか?」
「はい」
「あの犬は、あの犬は、私にしか見えないのです!わたしと母上だけにしか、見えないのです」
「わたしには、見えましたよ」
「本当でございますか?」
「ええ」
「あの、骨と皮ばかりの」
「ええ」
「湿った、悲しそうな目をした」
「ええ。他の者には見えないのですか?」
「東三条殿(兼家)には、見られておられませんでした。あの方はただ、大声でわたくしを笑い飛ばされました。『また、なにをバカなことをおっしゃるのです? そうやって、あることないことを作り上げてばかりおられるので、頭が疲れてしまうのです』と。母上だけだったのです。わたくしの恐怖を分かっていただけたのは」
初瀬殿は再び優しくわたくしを抱き寄せられました。
 
「ご安心ください。わたしが、追い払いましょう」
「どうか、打ったり、蹴ったりなどなさいませんように!」
「ご心配なさいますな。嵯峨から送らせました、キジがまだ台盤所にあるはずです。肉を餌に屋敷の外につれだして、鴨川の河原で喰わせましょう。腹が減っているから、屋敷に入り込んだのでしょう」
 
そうおっしゃると、初瀬殿はろうの灯を片手に、またスタスタとお出になりました。
 
 

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