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「山寺へ」第3話

 二人が十五分ほど西に進んだ時、陽介は地形図を見ながら言った。
「この辺の傾斜が造園所からは一番緩い」
「じゃ、ここが参道だったんですか」
「跡形もないですよね」
「降りてみますか?」
「ええ。丁度、造園所の真上あたりですし」
 下りは登りよりは楽だとはいえ、それでも直線で降りられる箇所などはなく、立ち込める木々をかわしながら、二人はスウィッチバックを繰り返した。
 陽介の手に捕まって、斜面に横たわる倒れた大木を乗り越えていた祥江が言った。
「千年前は、あんなに栄えていたお寺が、今は、小さな祠だけになって、あとは何一つ残ってないなんて。その祠にだって、たどり着けやしない!」
「千年ですよ? 千年もたてば何もかも変わる」
「でも……。当時は山頂にも麓にも伽藍やらお坊さんの宿泊施設やらが建っていて。鐘つき堂も、一つだけじゃなくて、いくつもあって。付近の山々からも、鐘の音が一斉に響いてきたって、『蜻蛉』に書いてありました」
「掘れば色々出てきますよ」
「ホントですか?」
「ええ。木が腐ってさえなきゃ」
「なんで掘らないんですか?」
「なんでって……。廃寺なんて、日本にいくつあるとお思いですか? 何千って単位でしょ? 一々発掘しているわけにはいきませんよ」
「ですよね。でも……。こんな風に信仰が忘れ去られていくなんて……。全部、土に覆われて、その上に、木が生い茂って……」
(そうだ。何もかも木で覆われてしまったんだ。伽藍も石畳の参道も。朱色が剥げた鳥居なんて、まるで木のようだ……)
 陽介は、そう思いながら、漫然と木々を見ていた。ふと、不自然に真っ直ぐで、ひときわ細い木が、木々の合間に目に入った。
(まさか……! 鳥居?)
 陽介は、急斜面を駆け降りた。そして、叫んだ。
「工藤さん! ありましたよ!」
「え?」
 祥江が見たのは、鹿のように軽やかに斜面を駆け下りていく、陽介の後ろ姿だった。彼の背中で、バックパックが跳ねていた。
 祥江は、また転んではいけない、とぬかるんだ急斜面を、慎重に降りて行った、そして、やっとのことで陽介の横に来ると、彼が見上げている物を見た。二人は、朱のあせた小さな鳥居の下に立っていた。
 辺り一帯の地面は平坦だった。鳥居は山の麓向きに、つまり南向きに建てられていた。
 鳥居から五メートルほど奥まったた所に、小さな祠が建っていた。屋根はびっしりと苔に覆われ、その上に小枝や落ち葉が散らばっていた。あと十年もすれば、崩れ果ててしまいそうだった。祠の裏には、湿った山の岩肌が、黒くそそり立っていた。
 二人は礼をして鳥居をくぐった。
「みつけましたね」
「ええ。菅原さんのお陰です!」
 祥江は、初めて陽介に笑いかけた。目が三日月のように細くなった。
「ろうそくがあればいいんですが」
 陽介は言った。
「両脇に、私達の携帯の懐中電灯をオンにして、立てかけましょうか?」
「いいアイデアですね。そうしましょう」
 二人は携帯から発せられる柔らかい光を灯明にみたてて、祠の両脇に立てかけた。木々が鬱蒼と追いかぶさるように迫る、この薄暗い森の中で、携帯の光が祠を照らしていた。
「お詣りしましょうか?」
「ええ」
 二人は祠に手を合わせた。陽介は目を開けて、右隣にいる祥江を見下ろした。雛人形の両手は、胸の前で合わされていた。細い指先の小さな爪は、柔らかいさくら貝色だった。
 もう正午をまわっていた。陽介は空腹だった。二人は祠の前にカーペットをしいて、また休憩することにした。
「昼はちゃんとした所に入る予定だったんで、おやつ程度の物しか持ってこなかったんです」
 陽介はそう言いながら、バックパックからおにぎりを出し、祥江に渡した。
「菅原さんが作ったんですか?」
「はい。山といえばおにぎりでしょう」
 陽介は、自分と祥江に、二つずつおにぎりを作った。一つ目には塩鮭を、二つ目には、母が作り置きしておいたごぼう味噌を入れた。
 祥江も空腹だったらしい。何も言わずに、塩鮭のおにぎりを平らげ、すでに二つ目を食べ出していた。下を向いて黙々と食べていた祥江が、顔を上げて言った。
「美味しい! なんですか、これ?」
「ごぼう味噌です」
「初めて食べます」
「じゃ、お口に合ってよかったです」
「菅原さんがお作りになったんですか?」
「いえ、それは母が作りました。簡単ですよ」
 陽介が、ごぼう味噌の調理法を説明している間に、木々の間に光線が差し込んできた。森中の雫が、光線に当たってキラキラと輝いた。
「晴れてきましたね」
「ええ。キレイ……」
「僕、思うんですけど、麓からの参道は、この辺りで西に折れて、尾根道に沿って山頂まで続いてたんじゃないかなって」
「じゃ、この祠が曲がり角に立ってたってことですか?」
「ええ。平安人だってバカじゃない。やはり傾斜が緩いルートに、参道を敷いたんでしょう。で、寺が廃寺になった後、明治の人達がここに祠を建てた。いや、祠は、もっと以前からあったのかもしれない」
 陽介はミントティ―を飲みながら聞いた。
「で、結局『蜻蛉』はんはどうなったんですか?」
「日記は、彼女が三十九歳の時のお正月で、突然終わっちゃうんです。彼女は、その後二十年間生きて、五十九歳で亡くなってます。彼女の後半生は知られてなくて、夫に忘れ去られて、寂しく死んだんだろうって、いろんなところに書いてあります」
「そうですか」
「私、この山に、彼女のお墓があったんじゃないかって、思うんです」
「どうしてです?」
「彼女の母親も、このお寺で亡くなってます。彼女、お母さん子だったんです。あと、大好きだった旦那さんと蜜月だった時に、よく二人でここに来たって、日記に書いてあります。大切な、想い出の場所だったんです。だから、来れて本当によかった!」
 陽介は、祥江から、彼が初めて彼女を見た時に感じた、緊迫感のようなものが消えていることに気が付いた。
 二人はカーペットをたたみ、祠に礼をして、帰路についた。車には、四時にたどり着いた。ハイキングブーツや濡れた防水具を車のトランクにしまい、二人は白砂山を後にした。

 暖房のきいた車に落ち着いて、よほど疲れていたのか、国道162号をしばらく走ったところで、祥江は眠ってしまった。だらりと前に垂れた頭が、コックリ、コックリと揺れていた。雛人形の白い手が、無造作に膝に置かれていた。
 祥江は、五時半には新幹線に乗りたいと言っていた。陽介は、ぎりぎりまで祥江と一緒にいたかった。
 午前中に降っていた雨は上がり、冬の昼下がりの弱々しい太陽の光が、車の窓から差し込んできた。陽介は、清水寺付近に駐車し、サラッと寺を見た後、祥江に何か暖かい物を食べさせてやりたかった。しかし何をするにも中途半端な時間だった。じっくり観光する時間も、ゆっくり食事をする時間もなかった。
 結局、陽介は、観光も食事も諦めて、京都駅の八条口に駐車した。祥江は、窓に頭をたてかけて眠っていた。陽介は、彼女の尖った顎から白い首、そしてしまった胸にかけての線を、目で追った。肩にかかったポニーテールの先が、まだ少し湿っていた。
 遂に陽介は、祥江が自然に目を覚ますことはないだろう、と判断し、彼女の肩をそっとゆすって起こした。
「工藤さん、着きました」
 祥江は、寝ぼけまなこで聞いた。
「どこですか?」
「京都駅です。八条口に停めました。こっちの方が工藤さんには分かりやすいと思いまして」
 祥江は背筋を伸ばして座り直し、何度も頭を下げて、陽介に礼を言った。
「本当は、清水か伏見にもご案内したかったんですけど」
「今日はもう、白砂山で十分でした」
「中途半端な時間に着きましたね」
 時計は、四時四十分を指していた。
「でも、慌てることなくトイレにも行けて、駅弁も買えるんで、丁度いい時間です。これなら、会社の人達にお土産を買う時間もあります」
「ここら辺は、車を停める場所がないんで、改札口までお送りできなくてすみません」
「そんな! とんでもないです。駅まで送っていただいただけでも、助かりました」
 二人は車を降りて、トランクから祥江のスーツケースを降ろした。
「すみません。お借りした物、洗ってお返しできなくて」
「そんなこと、気になさらないでください」
(これっきりか……)
 陽介は、自分の心の声を聞いた。
「お姉様にも、よろしくお伝えください」
「はい。また京都にいらっしゃる時は、お豆腐食べにいらしてください」
「はい。必ず行きます」
 では、と言って、祥江は頭を下げた。
 彼女の髪のわけ目の、白い地肌が目に入った。
 咄嗟に、陽介は聞いた。
「あの、来週の日曜日に、僕が東京に観光に行ったら、案内していただけますか?」
 自分が何を言っているのか、信じられなかった。暮れ行く京都駅の雑踏のなかで、ぼんぼりに急に光が入ったかのように、祥江の白い顔が明るく輝いた。
「もちろんです!」
「ご迷惑じゃないんですか?」
「全然迷惑じゃありません」
「ホントに行きますよ?」
「ええ、いらしてください。特別に行きたい所とかありますか?」
「ないです」
 二人は見つめ合った。
 とうとう、祥江が言った。
「あの、じゃ、来週」
「今夜東京に着いたら、ラインくださいますか?」
「はい」
 彼女は、笑いながら答えた。目がまた三日月のように細くなった。
 何度も振り返り手を振りながら、祥江は駅の構内に消えていった。
 陽介は、自宅に車を走らせながら、祥江の白い雛人形の手を思い浮かべた。自分のすぐ横で彼女が寝ている時、そっと触れたかった。あの淡い桃色の爪にも。
 鴨川を越えた最初の信号待ちで、陽介の携帯が鳴った。祥江からのラインだった。
「高尾山なんて、いかがでしょう?」
(また、山寺か)
 陽介は苦笑した。
 そろそろ太陽が、西のお山に沈む時刻だった。真冬の京都が、陽介の周りで、次第に夕闇に包まれていった。


 
 
 
 
 
 
 

 


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