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「山寺へ」第2話

 陽介は、席を立ち、店のオフィスで、空だったバックパックに、チーズケーキの箱をぎっしりと詰めた。そして、洗濯室から祥江の乾いたダウンジャケットを持ってきた。
「あれっ? 裾がきれいになってる」
 陽介からダウンジャケットを受け取った祥江は言った。
「あ、泥落としときました」
「すみません! そんなことまでしていただいて」
「構いませんよ。僕、時間があれば、お送りしたいんですけど、今日は五時から仕事なんで」
「そんな、とんでもないです。散々お世話になって。一人で帰れますから」
「どこに泊まってらっしゃるんです?」
「八条の都ホテルです」
「じゃ、藤村と目と鼻の先じゃありませんか?」
「ええ」
(京都駅まで彼女と話してける)
 陽介は嬉しかった。
「今夜も夕飯にいらっしゃいますか?」
「今日は本当に疲れてしまって。みやこみちに、美味しそうなパン屋さんがありましたよね。そこでパンとジュースを買って、部屋で食べます」
「ああ、あそこのパン屋は美味しいですよ」
 二人は、姉に礼を言い、カフェを後にした。
 姉は、京都にお越しの際は、また、チーズケーキを食べにいらしてください、と祥江を送り出し、祥江が背を向けた瞬間に、陽介にはウィンクをした。陽介はそんな姉に微笑んだ。こんな風に姉に微笑んだのは、久しぶりだった。
 二人は、河原町通りのバス停で、京都駅行きを待った。
「あの……」
 祥江が躊躇するように話し出した。
(断られるんか? 警戒された?)
「なんですか?」
「あの、私、やっぱり般若寺が諦められないんです。般若寺のエピソードって、『蜻蛉日記』のハイライトなんです。私、何度も何度も読み返して。石段を登ったり降りたりしてる道綱とか、山の上から都を見下ろしながら、夫に思いをはせている道綱の母の姿とか、色々想像して……」
(よかった! 断られるんではおまへんだ)
「じゃ、明日も般若寺ですか?」
 陽介は聞いた。
「よろしいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます。祠にお詣りできるだけでいいんです」
「明日はみつけましょう」
 陽介がそう言った時、バスが来た。

 翌朝も、冷たい小雨の降るどんよりした天気だった。九時キッカリに、陽介は両親から借りたセダンで、都ホテルに着いた。祥江はホテルの入り口で待っていた。しょうが色のセーターに、黒いパンツを履いていた。
 二人は挨拶を交わし、祥江のスーツケースをトランクに乗せた。車は堀川通りを北上した。
 陽介は切り出した。
「あの、昨日は、山の麓で造園所には入ったんですか?」
「入ってません」
「僕、祠への参道へ行くには、造園所を通過しないとダメだって記事を見つけたんですけど」
「え? 本当ですか?」
 陽介は自分の携帯を祥江に渡し、そのサイトを見せた。
 祥江は記事を読み終え、助手席に背をもたせかけ、呻いた。
「ツメが甘かったんだ!」
「今日は、造園所を通らせてもらいましょう」
「じゃ、昨日、雨の中をフラフラと探し回ってたのは、全部無駄だったんですね」
「昔の般若寺の墨絵なんかも、ネットに載ってましたけど、やっぱり現在の造園所が寺だったんじゃないかと僕は思います。もちろん、伽藍は山頂にもありましたけど。墨絵を見ると、頂上までの参道沿いにも、いくつかお堂が建ってたみたいです」
「じゃ、道綱が登り降りした、森林の中の石段は?」
「今のバス通りから造園所に登る道のどれかが、かつては石段だったんじゃないでしょうか」
「今はただの道路で、両脇は分譲住宅ですか?」
「……」
「でも、それだと辻褄が合います。お寺の大門までは、京から牛車で来れた。でも本堂へは石段を登らなきゃ行けなかった、って『蜻蛉』にも書いてあります」
「地形図を見ると、祠は造園所の敷地から山に入って、ちょっと登った所にあります」
「造園所って、勝手に入っていいんでしょうか?」
「それは、もちろんお断りして。ネットに祠の写真が載ってるってことは、たまにファンが訪れてるってことですよね?」
「そもそも、なんでお寺の跡が造園所なんかに!」
 祥江は、平安時代のままでない京都が、本当に嫌いらしい。
「じゃ、午後から石山寺にも行けるかな?」
 五条通りを左折しながら、陽介は呟いた。
 十分後、車は国道162号を右折し、鳴滝般若寺町の造園所に到着した。二人の予想に反して、造園所の門は固く閉ざされていた。
「昨日は開いてました」
「流石に日曜日は開いてませんよね」
「どうしましょうか?」
「造園所をぐるっと周って、塀の崩れてる所とか、垣根の途切れている所から、侵入しましょうか?」
「あの、私、警備会社でシステムエンジニアしてるんですけど、最近は、どんなビジネスにも、防犯カメラが備え付けられてあるんですよね」
「もし、カメラに映ってしまったら、社会的にヤバイってことですよね?」
「はい。できるだけ正道通って、祠にたどり着きたいです。でも、なんでだろう? 今日もグーグルアースが機能しません。なんで造園所のそばに来る途端に、凍っちゃうんだろう?」
「じゃ、昨日工藤さんがなさったように、一旦山に入りましょう。で、祠を目指して、造園所の真上あたりまで行きましょう」
 陽介は、車を住宅地の外れの井手口川沿いに停めた。トランクには雨がひどくなった時に備えて、陽介が祥江のために用意しておいた、防水パンツやジャケットが入っていた。
「ダウンジャケットの代わりに、こちらの防水用のを着ていただけますか? あと、これ、姉のお古なんですけど、毛糸の靴下です。足にマメができないように、これも履いていただけますか?」
 陽介はスカウト歴二十年らしく、テキパキと指図し始めた。
 防水用のジャケットとパンツを付け、陽介の姉の手袋をはめ、祥江の装備も整った。二人は井手口川沿いを、森へ入って行った。
 ボースカウト歴の長い陽介も、白砂山に登ったことはなかった。陽介は自分の計画を祥江に説明した。
「この谷を五十メートルくらい上った所で、川を渡ります。で、山には傾斜のゆるい東側から登り始めましょう。祠のある標高まで登って、そこから西へ進みましょう。造園所の真上あたりで、祠に突き当たるはずです」
「はい。私一人じゃ絶対来れませんでした」
 川を渡ると斜面は急になった。もはや踏跡はどこにも見当たらなかった。二人は森をかき分けながら登っていった。
 立ち込める杉の木のせいで、昼間だというのに辺りは薄暗かった。森は雨をさえぎったが、木々から無数の雫が絶え間なく落ちてきた。あまりに急な斜面では、陽介は祥江の手を握り、彼女を引っ張り上げた。
 祥江の息遣いが、だんだん荒くなっていった。顔も蒸気してきた。陽介は速度を落とした。祥江には、陽介に付いて行くだけで、精一杯のようだった。
 二人は、やっと祠のある標高まで登った。そこから陽介は携帯の地形図を見ながら、なるべく不必要に高度を上げないように、祠を目指して西へ進んだ。しかし、いくら祥江に負担をかけまいとしても、倒れた木や突き出た岩が邪魔で、どうしても高度を上げたり下げたりしなければならないことがあった
 暫く何も喋らなかった祥江が、喘ぐように聞いた。
「ちょっと、休憩して、いいですか?」
「いいですよ。休みましょう」
「菅原さん、暑くないんですか? 私汗かいてますよ」
「工藤さん、ジャケットの下にセーター着てますよね。脱いでくださったら、僕が持ちますんで」
「でも……」
「人のギア担ぐの慣れてますから」
 陽介は、一畳ほどのプラスチックのカーペットを出し、なるべく平な地面に敷いた。祥江がカーペットに座ってセーターを脱いでいる間に、陽介は小さなサーモス水筒を二つ、バックパックから出し、その一つを祥江に差し出した。
「工藤さんの分です。こっちは僕のです。ミントのお茶でよかったですか?」
 祥江はただうなずいた。そして、湯気の立っているミントティーをすすった。
「美味しい! 甘いですね」
「ほんの少し、はちみつを入れました」
 二人は暫く、茶をすすっていた。
 ポタッ、ポタッ。木々の枝から、絶え間なく重い雫が落ちてきた。山の麓から、微かに井手口川のせせらぎが聞こえてきた。
「ここ、雪降ったらキレイやろな」
 陽介は、鬱蒼と茂る杉の森を見上げながら言った。
「でも、雪降ったら、登れませんね」
「スノーシューを履けば登れますよ」
「凄い大変そうですね」
「楽しいですよ」
「私、もうちょっと体力つけないと、観光もできないな」
「観光のために体力つけるよりも、観光しながら徐々に体力つけていったほうが一石二鳥じゃないですか」
「それもそうですね。どうせ週日は、ジムに行く時間も取れませんし」
「ところで、なんで『蜻蛉日記』なんですか?」
 暫く、祥江は何も言わなかった。
「『蜻蛉』の作者、道綱の母って、夫の浮気が許せなくて、夫に怒って、他の妻達に猛烈に嫉妬しまくって、自分の身を嘆いて、二十年間、もがき苦しみながら、ギャンギャンうるさく文句を言い続けてた人なんです」
「へー」
「それが、最終章で、ガラっと、まるで別人みたいに変わるんです。静かなんです。彼女の心が。この森みたいに……」
 陽介は、何も言わずに聞いていた。
「いいなぁ。どうしたら、ああいう静けさにたどり着けるんだろう、って凄く羨ましいんです」
「僕は、今まで何か読んでそれほど影響受けたことないな。しかも古典で」
「私もだったんです。そもそも読むのも書くのも嫌いで。『蜻蛉』が、本と呼べる、初めて読んだ本のような気がする」
「ホンマですか?」
「ええ」
 二人は暫く、森に降り注ぐ雫の音に、耳を澄ましていた。
「そろそろ行きましょうか。もうすぐ、参道につきあたってもいい地点です」
「はい」
 陽介はカーペット、水筒、祥江のセーターをバックパックに入れた。二人は仮の休憩所を後にした。

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