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「山寺へ」第1話

菅原陽介は、京都駅の和食レストラン藤村でウェイターをしていた。工藤祥江(さちえ)は、東京からの観光客だった。二月のある金曜日の晩、二人は藤村で出会った。翌日、二人は鴨川の岸辺で再会した。祥江は、「蜻蛉日記」の作者にゆかりの場所を巡るために京都を訪れていること、そして、その日は般若寺の跡地に建つ祠を探すために、白砂山に入ったが、結局見つけられなかったことを陽介に告げた。雨の降る翌日、二人は共に白砂山を徘徊し、ついに祠を発見した。京都駅への車の中で、陽介は彼女に魅かれている自分を認識した。夕闇に包まれゆく、京都駅八条口の雑踏の中で、二人は、一週間後の東京での再会を約束し別れた。
 

 「大丈夫ですか?」
 陽介は思わず客に聞いた。客は二十代中頃の女で、湯豆腐定食「藤姫」を食べていた。
 女は、何がですか? とでも聞きたげな顔で陽介を見上げた。
「大丈夫ですよ」
 完璧な東京弁だった。
(何聞いとんのや、オレは)
 陽介は気を取り直して、客に言った。
「こちら豆乳入りチーズケーキと、コーヒーになります」
「あ、ありがとうございます」
 陽介は、デザートとコーヒーを女の前に置くと、彼女のテーブルから空になった皿や碗を下げはじめた。
 陽介は、無意識に女の左手を見た。指輪はなかった。手は黒いコーヒーカップに、ミルクを注いでいた。白くて細かった。細長い指の先に、小さな爪がついていた。
(まるで雛人形の手や)
 爪はさくら貝色だった。陽介は、携帯にかがみ込んだ、彼女の頭のてっぺんも見た。どういうわけか、髪の分け目の白い地肌に、妙に目が吸いつけられた。
 陽介が、ウェイターとして働いている藤村は、京都駅のみやこみちにある、豆腐料理専門の和食レストランだった。今夜のような金曜の晩は、新幹線で京都に着いたばかりの観光客で混んだ。
 雛人形の手の女は、銀色のスーツケースを転がして、一人で店に入って来た。小柄で、慌ててまとめたかのように、髪をポニーテールにしていた。小さなお雛様のような顔に、小さな顎がとんがっていた。
 雛祭りまであとニ週間だった。陽介は、母親に姉の雛人形を出して飾るのを手伝ってくれ、と頼まれていた。当の姉は、既に独立して、実家を出ているにもかかわらず。
 雛人形の手の女は、料理を注文するやいなや、携帯電話で熱心に何かを読み始めた。陽介が料理を持って行くと、携帯で地図を見ていた。
(女の一人旅か)
 最近は、店にも、三十代から六十代にかけての女性観光客が、よく一人で入った。だが、この女には、週末を利用して京都観光に来た客の持つ、開放感がなかった。陽介には、彼女のカラダ全体が、疲労しきっているように感じられた。女は料理を機械的に口に運びながら、一心不乱にネットで情報を集めていた。
(こないな切羽詰まった様子で、一体どこに行きたいんやろ?)
 陽介は、疑問に思わざるを得なかった。
 そうこうするうちに、店が混んできた。陽介が忙しく給仕をしているうちに、気が付くと、女はもういなかった。
 陽介が上ろうとしていると、副店長の高木が呼び止めた。高木は背が低く、キビキビと動き、ハキハキと喋った。顔は、光源氏絵巻の源氏に似ていた。
「菅原、ちょいええ?」
「はい。なんどすか?」
「お姉はんとこから、チーズケーキ、仕入れてきてくれへん? 最後の一個、さっき売れてもうた」
「ええどすよ。明日、出勤前に仕入れときます。また、十二個くらいでよろしいですか?」
「ええよ。よろしうね」
「へぇ」
 藤村で人気の、豆乳入りのチーズケーキは、ケーキ職人の陽介の姉の代表作だった。最近、藤村では、土産用にも販売し始め、なかなか売れ行きがよかった。

 陽介は店を出て、八条口から新町通りを、長い脚で歩きだした。ニ月の京都の、星の見えない曇った夜だった。駅前は、すでにひっそりとしていた。
 陽介は、両親と同居していた。自宅は、お寺さん(東福寺)に隣接していた。藤村へは、歩いて通えた。陽介は、歩くのが趣味だった。生まれも育ちも京都だった。二十七年間、この街を歩いてきた。
 陽介は長身で、年の割には落ち着いた雰囲気の男だった。ここ二十年ほどは、一ヶ月に一度、父親と一緒に近所の床屋に行っているので、直毛の髪はいつもさっぱりと短かかった。時々、藤村で、女性客にラインのIDを書いた紙を渡されることがあった。登録したことはなかった。
 陽介は歩くのが速かった。七歳の頃から、ボーイスカウトの会員だった。大学時代から現在まで、未だに成年指導者として関わっていた。
 陽介には、今までに交際した女が二人いた。最初の彼女は、沖田浩美といって、大学一年の夏のスカウトのキャンプで出会った。彼女も、ガールスカウトのOGだった。浩美とは山歩きという趣味も合い、一緒にいて楽しかった。だが、大学を卒業し、彼女が大手企業に就職し、陽介が藤村で働き始めた頃から、関係がギクシャクしてきた。
「将来どうするん?結婚して子供が欲しくなったらどうするん?」
 浩美は聞いた。
(どうするん、と言われても……)
 陽介は返答に困った。
「法学部出て、レストランでアルバイトって……」
「そのうち、社員になれば、給料だって上がる」
「じゃ、転職する気あらへんの?」
 彼女の大きな目が、さらに大きくなった。信じられない! というような彼女の口調が耳に残った。
 藤村では、年末年始はなかなか休めないが、夏はまとめて二週間休みがとれた。陽介は例年、一週間はボーイスカウトのキャンプを指導し、残りの一週間で、スカウトのOB仲間や学生時代の友人たちと、日本各地を旅行した。何よりも、陽介は、藤村での仕事が好きだった。浩美には、まともな仕事とは認めてもらえなくとも。卒業して二年目の夏、浩美は札幌に転勤した。そこで、二人の関係は自然消滅した。
 陽介の二人目の女は、坂本マキといって、一年ほど付き合った。最初は完璧かに見えた二人の関係だったが、次第にマキは性交が好きではないということが、明らかになった。
「治療が必要なんやないか? オレも一緒に、カウンセリング受けよか?」
 陽介は提案した。
「陽介さんのせいではおまへん。前の人ともそうやったん」
 細い肩を震わせて、マキは言った。
 マキは、診断を受けることを堅くなに拒んだ。結局マキが陽介を去る形で、彼女との関係も終わった。陽介は抗わなかった。しかし、マキを慕う気持ちは中々消えなかった。
 マキと別れてからは、手軽に、試しで、女をデートに誘うことができなくなった。慎重になっている自分に気が付いた。

 新町通りを南に進み、九条通りに近づいてきた時、携帯が鳴った。大学時代のゼミ友の江口だった。寺町で始まる二次会に、陽介を誘ってきた。江口は、金曜の夜となると、飲み会を開いた。
「オレもうほとんど家着くで」
「そう、堅いこと言わへん。オマエきーへんと、今日集まった奴ら、みんなアク強ーてバランスとれへんのや」
「そやかて……」
「どーせ、家帰って、寝るだけなんやろ?」
 それもそうや、と陽介は、江口主催の飲み会に出ることに決め、九条で地下鉄に乗った。
 江口の二次会に残っていたのは、陽介の卒論ゼミで一緒だった三人の男たちだった。江口は法学部の院に進んだが、この三人は企業に就職した。
 陽介と江口は、在学中は友達同士というわけではなかったが、四年ゼミの京都に残ったメンバーで、就職しなかったのはこの二人だけだったので、卒業後は、たまに会って一緒に飲むようになった。今日は、プレゼンでもあったのだろうか、江口は直毛を七三に分け、紺のブレザーを着ていた。そして、いつもの赤縁ではなく、黒縁の眼鏡をかけていた。
 三人の企業戦士達は、スーツに革靴を履き、ブリーフケースを持っていた。一人は、中村という小柄な男で、何かに驚くと、「アイヤー」とつぶやいた。中国語の動画を見すぎなためらしかった。二人目は、杉山といって、陽介くらい背が高く眼鏡をかけていて、やたらと女にもてた。三人目は、少々小太りで早口で喋る、稲垣という男で、若いうちに一財産を築き、南の島で余生を送ることを夢に見ていた。
 二次会もお開きになり、酔っ払い五人組は、居酒屋を出て、やっと人通りがまばらになってきた新京極通りの、錦天満宮の前を通りかかった。真夜中に近いというのに、天満宮の門が開いていた。
「アレ? なんでまだ宮さんの門開いとるんやろう?」
「今日、なんか特別な日やったんやないか」
「菅原はん、今日はお祭やったんか?」
「知らへん」
 陽介は笑いながら答えた。陽介の姓は菅原だった。錦天満宮には、菅原道真が祭られていた。
「ここ、からくりみくじが、あるんやろ?」
「なんや、それ?」
「おみくじの自動販売機や」
「ホンマかいな?」
「おまえ、引いたことあらへんの?」
「おまへんよ」
「引いてみっか?」
「入れへんやろう。営業時間、とっくに過ぎとるで」
「でも、門開いとるで」
 尻ごみする四人を後に残し、江口は、サッサと一人で門をくぐって入って行った。
「アイヤー、えぐっちゃん!」
「なにしてん?」
「行ってしもたよ」
 四人は顔を見合わせ、慌てて江口を追って、錦天満宮に入って行った。
 江口は、からくりみくじ機に金を入れ、おみくじが出てくるのを待っていた。ガラスケースに入ったからくり獅子が、神楽に合わせて踊りながら、おみくじを咥え、ケースの下に付いている受け取り口に、ポトリと落とした。
 オレもオレもと四人が続き、全員がおみくじを引いた。
 五人の酔っ払い男どもは、見つからぬうちにと、素早く錦天満宮の門を出て、鳥居の下でワチャワチャと、互いのおみくじを披露し合った。大吉を引いたのは陽介だけだった。
「えかったな!」
「おまえ、今、運必要そやしな」
「なんで陽ちゃんに運が必要なん?」
「彼女にふられたんやて」
「オマエ、またふられたん?」
「もう、大分前の話や」
「ほんでもって、まだ元カノのことが忘れられへんのやて」
「ホンマかいな」
「そないなことあらへんよ」
「要はあれや。女は優しいだけの男にゃすぐ飽きるってことや」
 陽介はほろ酔い加減で、ただニコニコと笑いながら、友人達にからかわれるままでいた。
 一行は地下鉄の駅に向かって歩きだした。陽介は、自分のおみくじの「恋愛」の箇所を読み返した。「新しい出会いあり」と書いてあった。
「えかったな!」
 陽介の肩ごしに、江口がおみくじを盗み見ていた。
「きばりや」
 江口は、目の座っていない顔を陽介に近づけて言った。

 次の日の朝は、小雨の降る土曜日だった。陽介は普段より遅く起きた。
 陽介が起きた時、両親はもう外出していた。父は将棋仲間を、母はすぐ近所に住む祖母を訪ねていた。
 陽介は、冷蔵庫を開け夕飯の残り物を取り出した。三毛猫のキューティが、陽介の足にまとわりついてきた。陽介は、キューティにエサをやり、自分も残り物で食事を済ませ、洗濯と掃除に取り掛かった。
 そうこうしているうちに、午後に入って雨が上がったので、チーズケーキを仕入れに、姉の経営するカフェに、歩いて行くことにした。
 陽介は、チーズケーキを入れる大きめのバックパックを背負い、自宅を出た。土曜の午後は、カフェにはアルバイトの学生が一人入っているはずだった。忙しそうだったら、自分も四時まで接客を手伝って、藤村には直で行って、五時からのシフトに入る予定だった。
 陽介は、鴨川沿いを歩くのが好きだった。特に、川下から、北方に連なる山々に一歩一歩近づいていくように、川上に向かうのが好きだった。休みの日には、ベンチに座って、行きかう人々や犬を見た。ただ何も考えずに、水鳥を、ボーっと眺めているだけのこともあった。
 この雨上がりの昼下がり、空気は冷たく、空は曇っていた。鴨川の水位はいつになく低かった。陽介は左岸の土手沿いの歩道を、水たまりを避けながら歩いた。
 姉のカフェは京都御所の東にあった。
 二条大橋の手前で、見覚えのある女が、前方から歩いて来た。雛人形の手の女だった。膝までくる灰色のダウンジャケットを着て、大きな茶色のショルダーバッグを左肩にかけていた。
 陽介には、好みの女性客に声をかける習慣はなかった。今回も、黙って通り過ぎるつもりだった。
 すれ違った後、振り返って女の後ろ姿を見た。ダウンジャケットの肩から背中にかけての色が黒ずんでいた。雨に濡れた証拠だった。陽介は、彼女のジャケットの裾にも目を留めた。泥で汚れていた。
(転んだんか?)
 自分でも気づかないうちに、陽介は女を追い、声をかけていた。
「あの、背中濡れてます」
「はい?」
「冷たくないんですか?」
「あ、速足で歩いてきたんで」
「風邪ひきます」
「はぁ」
 陽介は、ボーイスカウトOBの目で、女の履いているブランドストーン風のブーツも見た。ブーツも泥で汚れていた。
「転んだんですか」
「はい」
「大丈夫ですか」
「はい。山でツルっと滑ったんですけど、幸いどこも怪我はなくて。コートがちょっと汚れちゃっただけで。あの、どちら様でしょう?」
「昨日のレストランで、給仕してた者です」
「あー、お豆腐のお店の」
「はい。真冬の京都で、背中濡れたままフラフラしない方がいいですよ」
「あの、今日は、もう一か所行きたい所があって。そこに行ったら、ホテルに帰ります。なんだか凄く疲れてしまって」
「どこに行きたいんですか?」
「荒神口です」
「じゃ、ここからちょっと戻ればすぐです」
「え? 私、通り過ぎちゃったんですか?」
「ええ、でもすぐそこです。僕も荒神橋から土手を上がるつもりだったんで、途中までご一緒します」
「京都の方ですか」
「はい」
(震えてはおらん。カラダが冷え切ってるわけやないんや)
 陽介は観察した。
「どこから歩いて来たんですか?」
「えーっと、今出川、かな? バス、乗り過ごしちゃったんです。荒神口で降りるつもりだったんですけど」
「じゃ、どこで転んだんですか?」
「白砂山っていう山で」
「あー、はい、仁和寺の先の。遠かったでしょ? バスありました?」
「一時間に一本でした。でも、私、乗り換えが上手くできないんで、一旦京都駅に戻って、それから荒神口を通るバスを探しました」
 話している間に、二人は荒神橋の下に来ていた。二人は、土手から荒神通りへ続く階段を上り始めた。
「荒神口に何かあるんですか?」
「『蜻蛉日記』ってご存じですよね」
「はい。あの高校の古典でやった」
「ええ。その作者が荒神口辺りに住んでたんだそうです」
「へー。その作者のこと調べてんですか?」
「そうなんです。彼女にゆかりのある場所を周ってるんです」
 いつの間にか、二人は荒神通りと河原町通りの交差点に立っていた。
「ここが荒神口です」
 陽介は言った。信号機の下にハッキリと「荒神口」と書いた道路案内標識が下がっていた。
「ここ、ですか?」
 女は辺りを見渡した。半信半疑だった。
「ええ」
「ネットには、鴨川と寺町通りの間だって」
「じゃ、ここです。寺町通りは、ここを真っ直ぐ御所に向かって行けば突き当ります。ホラ、ここからもう御所の敷地が見えます」
 陽介は、河原町通りを挟んで続く荒神通りを指差した。
「でも、何もないですよね」
「何もない、というと?」
「『蜻蛉』によると、ここには息子の道綱の飼ってた鷹が、空中を飛び交ってて、田んぼでは稲を作っている人達もいて……」
(またか……)
 陽介は思った。
(なんで観光客は、京都が平安や戦国時代のままでないと、動揺しやるんやろ? 京都だけ、時間が止まってなきゃいけへんのか?)
 女は続けた。
「寺町通りは、昔は中川って川だったんだそうです。で、雨が降り続くと、鴨川と中川の水が、溢れんばかりにゴウゴウと流れて。彼女は、二つの川に挟まれた屋敷に住んでいたから、凄く怖かったって言ってます」
「彼女って?」
「あ、作者の、道綱の母です」
「詳しいんですね」
「なんで、埋め立てて、道路にしちゃったんだろう?」
 女は陽介に構わず、自分に問かけているようだった。
「じゃ、寺町通りまで行ってみましょうか?」
「よろしいですか?」
 女の声が弾んだ。
 二人は河原町通りの交差点を渡り、荒神通りを、御所に向かって歩きだした。
 しばらく行くと、右手に学校が見えてきた。敷地はかなり広かった。学校の塀脇に、京都によくある史跡看板が立っていた。二人は立ち停まって読みだした。
「法成寺跡。道長が建てたんですね」
「自分の父親の、第二の妻だった人の近所に」
「随分、壮大な寺だったみたいですね」
「今は何一つ残ってなくて、学校、ですか」
 陽介は、京都の児童も勉強する場所がないと困りますから、と言おうとして止めた。
「あんなに絶大な権力を誇っていた道長にゆかりの場所さえ、こんな変わりばえ」
 女はさも残念そうに呟いた。
 陽介は、日が下がるにつれて、増々冷たそうに見えてくる女の背中に目をやった。
「あの、僕、このバス通りをちょっと行った先の、姉が経営しているカフェに、用事があるんです。丁度いいですから、そこでジャケット乾かしませんか? ココアかなんか飲んで、カラダあっためた方がいいですよ」
 女は諸国無常について、考え込んでいるようだったが、陽介の誘いに我に返り、同意した。
 数分後、陽介は、府立医大病院近くの姉のカフェに女と入った。店内は白で統一されていて、明るく広々としていた。小さなセントポーリアやアロエの鉢植えが並ぶ窓際の七つのテーブルは、客で埋まっていた。
 店の奥にはケーキ、クッキー、マフィン、レモンスウェア、グラノーラ入りヨーグルトなどが並んだケースがあった。
 姉は、週日のランチには、サラダ、サンドイッチ、スープなどの軽食も出していた。カフェは、近辺にある大学の学生や、病院の職員などに人気があった。
「おこしやす! ああ、陽ちゃん、遅かったやん」
 陽介の姉は、二人を笑顔で迎えた。姉の茶髪は、フレンチスタイルに編み込まれていて、二本の短いおさげが両肩まで届いていた。おさげの先には小さな紫のリボンがとまっていた。背は陽介のように高く、白いパンツに、オリーブ色の薄手のブイネックのセーターがよく似合っていた。
「うん。かんにんな。ここええ?」
 陽介は、ケースに近いテーブルを指して、姉に聞いた。
「ええよ」
 姉は、手早くおしぼりと水を盆にのせ、テーブルに歩いて来た。
「姉ちゃん、僕、ココアお願いできる? あと、あれ、ええかな?」
「ええよ、もちろん」
 姉は弟に微笑みかけながら言った。
 陽介は女に聞いた。
「飲み物何になさいます?」
 女は姉に言った。
「じゃ、私もココアでお願いします。あの、この方が遅れたの、私のせいだと思うんです」
「いいんですよ。時間を決めてたわけじゃありませんでしたから」
 姉は興味深気に、女を見た。
「あ、この方観光でいらしてて」
 陽介は姉に説明した。そして女に聞いた。
「あの、まだ、お名前伺ってませんでしたよね。僕、陽介といいます」
 陽介は、女にペコっと頭を下げた。
「そうでしたよね。私、工藤祥江(さちえ)といいます」
 祥江も頭を下げた。髪の分け目の地肌が白かった。
「え、じゃ、会ったばっかりなん?」
 姉は二人に聞いた。
「はい。鴨川沿いで、私が道をお聞きして」
「ところで、姉ちゃん、乾燥機使ってもええ?」
「ええよ。まだおしめりふってるん?」
「もう止んでるけど、この方、雨ん中歩かれて、ジャケット濡れてしもたん」
「あの、そんな、ご面倒をおかけするわけには」
「このままじゃ風邪ひきますよ。ポケット、空にしていただけますか? 乾燥機は低温にセットしますんで」
 陽介が洗濯室の乾燥機を始動させ、店に戻ると、祥江は放心したように座っていた。
(よう疲れてるみたいやな)
 陽介は思った。
 そこへ、姉がココアとチーズケーキを運んできた。
 チーズケーキを一口口に入れた途端、祥江はとっさに陽介を見て言った。
「これ、昨日の?」
「同じ品です。うちのレストランでは、姉から仕入れてるんです」
「お口に合いますか」
 姉はニコニコしながら、カウンターごしに祥江に聞いた。
「あんまり美味しかったんで、昨日両親にってお土産に買ったんです」
「じゃ、あなただったんですね。最後の一個をお買い上げ下さったのは」
「関東の方?」
 姉が聞いた。
「はい」
「京都は初めて?」
「二度目です。最初は修学旅行で。でも高校の頃は歴史や古典に興味があったわけじゃなかったから、なんにも覚えてないんです」
「修学旅行なんて、そんなもんですよ」
「あの、ところで、上のお名前は? 初対面の方を下のお名前でお呼びするのも……」
 祥江は陽介に聞いた。
 陽介は躊躇した。こういう歴女タイプに自分の苗字を言うのは気がひけた。
 姉が代わりに答えた。
「菅原です。私は陽介の姉で菅原絵里といいます」
「菅原さん、なんですか?」
 祥江は陽介と姉を交互に見ながら聞いた。
(ホラ来よった)
 陽介は身構えた。
「ええ」
「あの、道真公の菅原ですか?」
 姉はただニコニコして二人を見ていた。
(そやから、言いたくなかったんや)
 陽介は思った。、
「あの、苗字が菅原ってだけで、道真の子孫とかそういうんじゃありませんから」
「でも、京都の方なんですよね?」
「ええ」
「ずっと、京都なんですか?」
「ずっとだったかどうかなんて、分かりません、よね?」
 陽介は、姉を見上げて助けを求めた。姉は、ニコニコしているだけで何も言わなかった。
「京都で菅原さんなんだったら……」
「でも、うちが子孫だって文献で残ってるとか、そういう証拠らしいものも、何一つありませんし」
「子孫ではおまへんって証拠もあらへんけどな」
 姉は、からかうように言い残して、接客をしに、窓際のテーブルに向かった。
「あの、ご先祖が神様って、どんな感じなんですか?」
「ですから、あの菅原さんは、ご先祖でもなんでもないんです。日本中の菅原さんが、道真の子孫だなんてこと、あるわけないじゃありませんか。そんなことより、今日はこれからどうされるんです?」
「今日はなんだか、ひどく疲れてしまって。ホテルに帰って休みます」
「白砂山には、どのくらい入ってらしたんですか?」
「入れなかったんです。山に入る入り口を探して、麓の林や造園所の周りや住宅地をウロウロウロウロと、三時間くらい歩き周っていました。グーグルアースを使ってたんですけど、造園所の門の前に来るたびに、アプリが凍っちゃうんです」
「あの辺ってそんな僻地でしたっけ?」
「ネットは使えるのに、グーグルアースだけは機能しなくなるんです。で、思い切って、山道でもなんでもない所を、木の根っこや枝につかまりながら登り初めて、しばらくそうやって、登ってたんですけど、誰もいないし、シーンとしてるし、怖くなって、引き返したんです。そうしたら、途端に転んじゃって」
「午前中は、あの辺はずっと雨だったんですね」
「小雨でした。折り畳みの傘をさしてたんですけど、ホントに小ちゃな傘で。林に入ると、木が鬱蒼と茂ってたので、雨に濡れることはなかったんですけど。麓の大きな道路に出て、バス停で、四十分ほど待ったんですけど、背中が濡れちゃったのは、その時だと思います」
「その山に何かあるんですか?」
「道綱の母が、よく参拝していた般若寺の跡があるんです。これです」
 祥江は、雛人形の手で携帯のスクリーンショットを探し、陽介に差し出した。陽介は、彼女から携帯を受け取り、般若寺跡の記事を読み始めた。
「般若寺って廃寺なんですね。いつ頃廃寺になったか、分かりますか?」
「えーと、別のサイトには、十九世紀中ごろ、って書いてありました」
「明治維新あとか」
「でも、あの、ちょっとよろしいですか?」
 雛人形の手が陽介の大きな手から携帯を取り、また忙しく、スクリーンショットを探しだした。
「これ見てください。今は廃寺だけど、まだ、小さな祠が一つ残っていて、お詣りできるって書いてあります」
 スクリーンショットには、鬱蒼とした林の中に佇む、小さな祠が寂しげに映っていた。
「この祠を探してたんですか」
「そうなんです。でも転んじゃって。遭難でもしたらどうしよう、って怖くなって諦めたんです」
「いつお帰りになるんです?」
「明日です」
「明日も観光なさるんですか」
「ええ。月曜は仕事なので、京都は五時半までには出ないと」
「あの、僕、明日は休みなんですけど、よろしければ、ご案内しましょうか?」
「よろしいんですか?」
「ええ。明日も雨みたいだから、遠い所にいらっしゃりたいんだったら、車で行きましょう」
「ご迷惑ではないんでしょうか?」
「明日は暇ですから、お気使いなさらないでください。どちらへ行く予定なんですか」
「あのですね、道綱の母にゆかりの場所で、まだ行ってないのは、石山寺とか、清水寺とか、伏見稲荷です」
「じゃ、朝九時くらいから、車で石山寺に行って、琵琶湖を見ましょう。九時じゃ早いですか」
「いえ。丸一日観光できていいです」
「石山寺の駐車場は、大きくて停めやすいし、近くに美味しい店もありますし。で、午後は、清水や伏見に行きましょう」
「地元の方に案内していただけるなんて、思ってもいませんでした」
 祥江は静かに喜んでいた。
(手ばかりやのうて、顔もお雛様みたいや)
 陽介は思った。

第2話:https://note.com/preview/n7ed12cb089a1?prev_access_key=3aa244af82db63c7a00783b728b325cf

第3話:https://note.com/preview/n7f647029083b?prev_access_key=9e58f9506fb4408bfd7caa393b0db634


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