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「デザイン」という言葉のデザイン

イームズの「デザインとは“スタイル”ではなく、問題を解決してより良い世界を築いていくものだ」という言葉は、デザインの定義について語られるときによく取り上げられます。そしてデザインの専門家は、多くの場合、こう続けます。日本では「デザイン」という言葉が間違って使われている。色や形を構成する「スタイリング」の意味で、「デザイン」という言葉が使われていると。

「イームズのデザインの本質はモダンではなく、“もてなしの精神”でした」http://www.webdice.jp/dice/detail/3816/

習慣として、「日本では...論」がでてきたときには、いったん冷静に考え直してみることが必要だと思っているので、ここでも少し別の角度から見てみましょう。

イームズの言葉は、デザインを探求した人の貴重な言葉として、「デザイン」の定義の一つの根拠として利用されてきています。しかし、イームズがなぜこのように語ったのかを考えてみると、逆の景色が見えてきます。少なくともこの時点で、イームズをとりまく環境では、イームズの言う「スタイリング」を「デザイン」だと考える人が多かったということの証拠でもあるのです。専門家のレベルではなく、一般のなかでは、それはむしろ普通のことだったことがうかがえます。

往々にして、著名な人の言ったことは正しいこととして受け取りますし、それを何かを証明するための権威として利用してしまいがちですが、言葉を文脈から切り離して利用することは、危険な面があります。

現在の、デザインする態度として、ユーザーを観察することが推奨されています。では、「デザイン」という言葉のユーザーは、これをどのように使っているでしょうか。「デザイン」という言葉のユーザーは、デザインの専門家だけでしょうか。むしろ、圧倒的に、専門家以外の人のほうが多いのではないでしょうか。専門家以外の人は、イームズのいうスタイリングを「デザイン」と認識している人が多いように思います。

だとすれば、「『デザイン』という言葉のデザイン」を考えた時に、その言葉に対する多くの人の認識を「間違い」であると言い切ることは、「デザイン的な態度」といえるのかという問題が生じます。「デザイン」という言葉についてだけ、デザインの専門家の考えと違うからといって、例外を作ってよいのでしょうか。それはむしろ、デザインそのものへの冒涜ともいえるように思うのです。


参加型デザインの理想形としての「言葉」

「言葉」というのは、参加型デザインのある意味、理想形であるように思います。言葉は、辞書のなかから生まれるわけではありません。定義が先にあるのではなく、人に使われることによって、社会のなかでの共同創作として意味が作り出されてきます。人はだれでも、なんの制約もなく、ここに参加することができ、楽しみながら価値を生み出していきます。そして、生み出された言葉自体も、常に変化しつづけます。

言葉というもの自体が、非常に理想的なデザインという行為のモデルであるように思われます。むしろ、言葉の持つ生命力を殺すのが、辞書を作る行為、定義を定めようという行為なのかもしれません。もちろん、辞書にも、言葉に対する愛情があるのですけど。

専門家が、自分が専門とする分野の言葉の定義を熟慮することは、とても大切です。そこが出発点でもあり、目的地でもあるかもしれません。ですが、それが一般的に使われている言葉に近いほど、言葉の持つ生命力を失わないように注意することが必要です。

「デザイン」という言葉については、一般のなかでも持たれている、色や形を構成する「スタイリング」の意味を持つ部分というのは、一つの出発点としては考えるべきであり、極端に否定すべきではないと思っています。

そのうえで、専門家として、それだけではないというのもわかります。一つの定義にとどまるのではなく、生きている言葉として動的にとらえていくという姿勢も、デザインというアティチュードを尊重するならば、持ち続ける必要があるでしょう。

言葉というのが、前述のように、デザインという行為のひとつのモデルとして、そしてまた、デザインのひとつの対象として、デザインにとって、以前より増して重要になっていると感じています。


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